鉛甘味料うるたこんべ

変なもの愛されないものを主とした本、映画、工作、その他の記録

江戸川乱歩「双生児」 カフェオレ式による人類の救済

角川ホラー文庫から出てる短編集の「双生児」を読みましたよー。

変なものを愛でるタイプの人々にとって江戸川乱歩は基本中の基本って気がします。でも私は実はあんまり読んでないので、そこんとこちゃんとしようと思って今回食指を伸ばした次第です。

 

双生児 (角川ホラー文庫)

 

あらすじ!

江戸川乱歩の短編より一人二役モノ「双生児」「一人二役」「ぺてん師と空気男」「百面相役者」「一寸法師」を収録したコンセプト短編集。もしあの人に成り代われたとしたら何をして遊びますか。

あらすじ終わり!

 

一人二役モノを集めたっていう触れ込みの割には一人二役が主題じゃない話もいくつかあって、少々こじつけ感がないではないが面白いのでOK。個人的には「江戸川乱歩」と「一人二役」というキーワードでポーの「ウィリアム・ウィルスン」みたいなのかなと想像したけど読んでみたら全然関係なかったぜ。

 

 あと、古い日本の本って水戸黄門式で勧善懲悪を尊しとするものなのかと思ってたのだけれどそうでもないんですね。(むしろ勧善懲悪を尊しとしなかったからこそいつまでも新鮮で今まで楽しく読むことができるのかも)

 今回読んだ本に関して言えば勧善懲悪を尊しとしないどころか悪の方が魅力的に描かれてた気がして、サド式の勧悪懲善とまでは行かなくても、悪役側の方に随分とヒロイックな印象を受けました。死に際に遺恨を残す双子の片割れ、自分の遊びに他人を巻き込んで憚らないペテン師や、かたわの身でありながら闇夜に暗躍する大悪党の一寸法師、まるで得体のしれない百面相役者。

こうも揃いも揃って素敵だと、江戸川乱歩さんはむしろ犯罪者の側になりたかったんじゃないかと思えてきます。どうにかうまいこと世間を騙してあんなことやこんなことができないかと考え抜いた犯罪計画がうまくいかなそうなので推理小説にしたら世間を魅了することに成功した。みたいなサクセスストーリーを妄想します。いいなぁ。

 

江戸川乱歩の物語って思うに思考実験的なんですよね。まっとうに考えたらありえなかろうと、諸々の事情はなんやかんやクリアできたことにして究極の状況を作り出したとき人は何を思うのか?みたいなことが基本方針としてある気がします。妄想狂江戸川乱歩のあんなこといいな、できたらいいなが感じられてすごく楽しく読めます。。

 

双子だったら入れ替わりとかし放題じゃん、実際に入れ替わって自分じゃない自分として見る景色はどんなだろう?とか、あの人が自分に見せている顔と別の人に見せている顔は違うはずだ、別の人にはどんな顔を見せているんだろう?とか、昨日会ったあの人と今日会っている同じ顔をしたこの人は実は別人なんじゃないか?とか。

そんな素朴でくだらないような気さえする疑問、しかし実際の答えようと思うとなんか答えに窮する絶妙なところを突いてきます。あぁむず痒い。

ほぼありえないんだけれど、しかし絶対に無理かと言われるとそうは言い切れないような気もするからこそ、「ありえねー」と思考を放棄することなく「いや、しかし」と考えることができるのかもしれません。

 

あり得るようであり得ないような、分からないようで分かるような絶妙なフワッと感、白黒つけないまま中途半端を良しとするのが江戸川乱歩なのかもしれません。カフェオレですねぇ。

このカフェオレ感には西尾維新とかひねくれた感じの現代小説で出会ったことがある気がするんですけど、そんな昔からあったんですねぇ。

 

 

えー、ここでカフェオレ式の素晴らしさでも解いてみようかと思います。

私の憂いている現代日本の病として、「白黒病」がありまして、(病名は今適当に命名しました)要は、何でもけじめが大事であり、初志貫徹こそが素晴らしく、何事も無駄なく円滑に進めなければならず、無駄や中途半端は悪であり、悪は存在してはならない、みたいな風潮ってあるじゃないですか。

その価値観に照らして考えるに、私なぞ毛髪の1本すら存在してはならないことになるんですよ。なんてこったい。まぁ、私はそんなの関係なく無駄と中途半端の存在を愛してるタイプなので別にいいんですけど。

でも、無駄なく白黒はっきりした完璧超人なんてそうそういないにもかかわらず、こういう価値観が蔓延してるから鬱病とか心の病気になる人がいるんじゃないかと思います、立派な人たちは大変ですね。

しかしながら、私としては立派な人たちがどんなに心を病もうと関係ないし別にいいんですけど、あいつらは他人にも白黒を押し付けてくるから嫌いなんですよね。私が憂いているのはそこなんですよね。

どうにかして立派な人たちにいなくなって貰えないものか 。いや別に死んでほしいって訳じゃなくて、うまいこと白黒病患者の数を減らしてもっと日本が幸福にならないものか、って意味です。

 

で、第二次江戸川乱歩ブームの到来による日本人の救済なんてどうかと思うのです。

時は奇しくも江戸川乱歩の没後50年!TPPの網をぎりぎりで突破した江戸川乱歩著作権!歓喜する国民!群がる群衆!なんとなくブームだからというだけの理由で江戸川乱歩人口は増加の一途を辿り、知らず知らずのうちに国民たちは中途半端を良しとするカフェオレ式を体得するのです!したらなんか知らないうちに鬱病は絶滅し、祝福の花火が上がり、人類は幸福に包まれたのだ…。

みたいな。

 

これは非常に大げさに書きましたが、正直江戸川乱歩が人類を救済することはないですけど、特定の個人を救済するくらいならあり得る気もします。うん、なくはない。

 

 

そんなけったいなことを考えずに読んだって江戸川乱歩は超楽しいエンタテイメントなのだから、ただの暇つぶしでもいいし、イマドキの小説に飽きたなと思ったら読んでみればいいんじゃないでしょうか。

 なんせ著作権フリーだし。

 

BGM 筋肉少女帯 ペテン

 

www.nicovideo.jp

絶望と音楽 「ショスタコーヴィチの証言」 は正直かなり面白い

ショスタコーヴィチの証言を読みましたよー。

クラシックを齧ったことのある人ならば名前くらいは聞いたことがあるかもしれない、音楽史的にも重要な位置を占めるかもしれない書物をやっと読みましたー。いえー。

 ショスタコーヴィチの証言 (中公文庫)

一応先に書いておきますが、この本は記者のヴォルコフさんがショスタコ先生にインタビューした内容を纏めて、ショスタコ先生の死後にヴォルコフさんの亡命先で初めて発表されたという代物でございまして、その発表の経緯や書かれている内容から、当時より「ヴォルコフが創作した偽書なんじゃないか」との疑いをかけられているのです。で、私がネットで調べた限りは、「偽書っぽいけど全部でたらめって訳じゃない」というクソ曖昧なのが定説なんだそうです。

 

そうなんですけど、

私は「証言」に書かれている内容は全て「ショスタコ先生の語った真実」として受け取りたいと思います。(「実際にあった真実」ではないところが地味にポイントです)

理由は、そっちの方が面白いので。

私は別に研究者とかじゃないんで、真実よりも面白さの方が重要なのです。ショスタコ先生は「証言」に書かれているような人間であって欲しいというのが私の願いであり、過去は改編できるのがソ連式なのです。(ショスタコ先生に嫌われそうな考え方ではあるけど)

 

では、

 

あらすじ!

今語られる20世紀最大の作曲家ショスタコーヴィチの生涯!死臭に満ちたスターリン体制下のソ連で彼は誰と出会い何を思いどう生きたのか!?

あらすじ終わり!

 

この本、正直かなり面白いんですよ!

一応体裁として、ショスタコーヴィチは自分語りが嫌いなので、ショスタコーヴィチと関わりのあった他人について語ることによって、ショスタコ自信の考え方などについても明らかにしていくという書き方をされており、当時の芸術界隈や社会情勢、政治との関わりなどが包括的に語られて、ショスタコ先生の思う芸術のあり方みたいなことにも非常に深く言及されている超すげぇ本なんです!

ショスタコーヴィチと交友があったり、その人の作品から影響を受けた人々というのは例えば、グラズノフ、マリア・ユーディナ、トゥハチェフスキー、メイエルホリド、ゾーシチェンコ、アンナ・アフマートワ、ゴーゴリムソルグスキーなど他にもたくさん。逆に軽蔑の対象として語られるのは、スターリンやその不愉快な仲間たち、体制に媚びを売るくだらない芸術家などです。

その人たちについての忌憚のない率直な印象が語られています。たまにえらい大御所がdisられててびびります。例えばトスカニーニショスタコの解釈は全て間違ってるんだそうです。まじかー。

 

本の中でも非常に多くのエピソードが書かれているのがグラズノフなんですけど、グラズノフショスタコーヴィチの何とも言えない師弟関係は読んでて嬉しくなっちまいます。曰く「グラズノフの作品は正直退屈だが、それでもグラズノフは本当に偉大な伝説の音楽家である。」(意訳)。他にも、グラズノフはほとんど年を取ったでかい子供だとか、重度のアル中で授業中に隠れてウォッカを飲んでたとかのエピソードを語りながら、それでも本当に偉大な音楽家なのだと力説するショスタコ先生が微笑ましく、素敵です。

 

この本で初めて知った人の中で気になったのは、ピアニストのマリア・ユーディナ。曰く「ユーディナが弾くとどんな曲でも他の誰とも違う演奏になる」のだそう。気になったのでyoutubeに上がってるのをいくつか聞いてみたらマジでそうだった。なんというか、バッハがヴェルディみたいにドラマティックになってた。私はピアノ曲は疎いので他の演奏との比較はできないのだけれど、こんな演奏をするのはたぶんこの人だけだ。語られるエピソードも破天荒そのもの、「恵まれない人に自分の家をあげた」り「貰った金をすぐに恵まれない人に寄付してきた」り「スターリンにえらい不遜な手紙を送った」り訳が分からないけれど非常に愉快で痛快です。本の中でショスタコ先生が何の解釈も加えない相手はこの人だけだったかもしれない。

 

ゾーシチェンコ、アフマートワ、パステルナークらは作家、詩人で非常に気になる存在なんだけど翻訳されてる本がえらい少ないみたいで悲しいです。

 

 そんな感じで普通に楽しい話をそこかしこに織り交ぜつつ、それだけで終わるわけがないのがスターリン体制下のソ連です。

先ほど沢山名前を挙げたショスタコーヴィチと交友のあった人々ですが、そのほとんどは当局からの弾圧によって国外に亡命したり、失意のうちに死んだりします。この絶望!

語られる環境が余りに理不尽かつ余りに絶望的過ぎて正直ドン引きです。

例えば、

昨日まで生きてた人が今日になったら記録からも記憶からもいなくなった。

スターリンがちょっと嫌な顔したので粛清。

子供が親を密告する映画が美談として作られていた。

など。

オーウェルもびっくりのディストピアが、リアルにそこにあったものとして描かれるのです。「動物農場」と「1984年」は読んでるし、ソ連が元ネタになってるのも知ってたけど、小説だからある程度は誇張されてるものだと思ってたんだけど、そうじゃねぇんだなっていうのがよくわかる。オーウェルがびっくりしたディストピアがそこにありました。

 

今日友人だった人が明日には密告者になるかもしれず、常に死と隣り合わせの国で、実際に友人や知人、民衆の死を目の当たりにしながら絶望の淵に立って音楽を作り続けた男、ショスタコーヴィチ。この本を読むことによって彼の残した音符の裏に人々の屍や独裁者の影を見つけることができるかもしれません。

また、音楽を紐解くための一助としてだけでなく、人々の悲劇を知り、過ちを繰り返さないためにも、もっと広く読まれるべき本です。

あと、別にそんな堅苦しい目的がなくても、この本が面白いというただそれだけの理由で読んでもいいと思います。

 

BGM ショスタコーヴィチ 交響曲第11番より 2楽章


Shostakovich Sym.11 2nd Mov. - 2

(これかっこいい曲だと思ってたんですけど、本を読んで「血の日曜日事件」を調べてから聞くと、祖国への失望と恐怖で涙が出るんですよ)

自由を勝ち取る 革命的ブックカバー製作

この記事は前置きが長くなりますので、私にとっては前置きもかなり重要な内容ではあるのですが、完成したモノだけ見たい方は飛ばして頂けると幸いです。

 

 

私が2015年に行った展覧会の中で(3つくらいしか言ってないけど)印象に残っているもの中に「魔女の秘密展」で見た拷問器具たちがあります。

 

urutakonbe.hatenadiary.jp

 展示されていたのは「スペインの長靴」とか「棘のある椅子」「苦悩の梨」など、どれもえげつないものばかり。魔女疑惑のある容疑者側を苦しめ、時には死に至らしめるために最適化された造形に驚愕したものです。

こんな悪意に満ちた造形って他にあるんでしょうか?

例えば銃は人を殺すための道具ではありますが、その背後には「自分や他人の身を守るため」だったり「祖国を守るため」に必要な武力として製造されている面はある気がするし、「使われずに済むのが1番いい道具」っていうのが(基本的な)共通認識としてある気がします。機能的な面としては(使い方にもよると思いますが)相手を即座に死に至らしめることもできます。

これに対して拷問器具って明らかに「使うため」に製造されたものであり、これによって何かが守られるわけでもなく(当時の人たちは魔女から身を守ろうとしたのかもしれないけど実際何も守れていない)、相手を死なない程度に苦しめた挙句場合によっては殺すという全く擁護する余地のない最悪の機械のように感じたです。

その形状から容易に想像されるある意味純粋な”悪意”に(私を含む)人々は心を抉られるのかもしれません。

 

そして正直な所、私が何かものを作ろうと思ったときに拷問器具のような「心を抉る造形」というのは、酷く憧れてしまうものでもあるのです。

 

 

ブックカバーの話をしましょう。

上記の内容が今回のブックカバー製作の初期衝動みたいなものです。しかしながら、拷問器具のイメージで作ろうと思った当初は「何故自分は拷問器具に憧れるか」という所まで考えが至っていなかったので、漠然とした「それらしさ」みたいなものは組み込んだものの、”悪意”を詰め忘れたことについてあらかじめお詫び申し上げます。

 

拷問器具を連想させるものとして象徴的なのは、ねじ式のバイスによる締め付け機構が最もそれらしいとは思うのですが、今回は「拘束」を連想させる鎖を使用することにしました。(バイスによって本を持つ手の指を締め付けて固定し、手を離すことができなくするブックカバーというのも考えなかったではないのですが、さすがにボツにしました)

素材は革を使用します。今回は「血」のイメージで赤色のものを選びました。

 

ここまで決まった時点で物語を考え始めます。私がものを作るためには物語が必要なのです。

拷問を受けるのは基本的には罪人であり今回は鎖を使用することからも場所は「監獄」を想定することができます。

そして今回選んだ赤色の革!この革を見ているとどうにも感情が高ぶるなーと思っていたのですがその理由が分かりました。赤は「革命」を想起させる色です!(これは主にロシア、ソ連のイメージですね)

そして作られるものがブックカバーである以上は何かしらの「文学」的要素が必要となります。

「監獄」「革命」「文学」この3つの点を結ぶことができる1本の線!私が思うにそれはフランス革命であります!

フランス革命」は、それまで貴族たちによって搾取されるがままだった第三身分の民たちが暴徒と化し、遂には貴族の地位をひっくり返し、当時の国王ルイ16世や王妃マリー・アントワネットを死刑するに至る歴史上の重大事件です。その口火を切ったのが当時の絶対主義の象徴でもあったバスティーユ牢獄の襲撃事件です。既存の価値観をひっくり返し自由を勝ち取るというのは文学的にも魅力的なテーマではありますし、バスティーユには襲撃事件の10日ほど前まで「ソドム百二十日」を執筆中のサド侯爵が収監されていたとされており、また「鉄仮面の伝説」など後に多くの作家に取り上げられるエピソードにも恵まれています。

今回のテーマは「フランス革命」、とりわけ「バスティーユ襲撃」に決定します。

囚人を拘束したり開放したりするブックカバーとは如何なるものなのでしょうか?

 

はい!

 

以上のことを踏まえまして出来たブックカバーがこちらになります。

 

f:id:urutakonbe:20160104132827j:plain

 わ、割とかっこいいんじゃないですか?

f:id:urutakonbe:20160104133509j:plain

反対側。

 

文字はですね、出来もしないフランス語で書きましたので、いざ読めと言われると発音できないやつですが、意味は以下の通り。

 

「prise de la Bastille」バスティーユ襲撃

左側のはルイ16世バスティーユ襲撃の知らせを受けた際に交わされたらしい会話。

C'est une révolte?」暴動か?

Non sire, cen'est pas une révolte, c'est une révolution.」いいえ閣下、暴動ではありません、革命です。

「le 14 juillet 1789」1789年7月14日

 

勉強になるなぁ。

f:id:urutakonbe:20160104134710j:plain

本の背表紙のあたりに曲げ代(という言葉があるのかは知りませんが)がついており、本の厚みにより折り返す量を調節します。本の厚みに無段階で合わせられる機構にするのは私のちょっとしたこだわりポイントでもあります。

f:id:urutakonbe:20160104135408j:plain

折り返したた部分が勝手に開かないように鎖で拘束します(やだ、監獄っぽい)。拘束具は100均で買ったヘアピンです。(弱っ)

f:id:urutakonbe:20160104135734j:plain

囚人を解放するとこんな感じになります。曲げ代は結構あるのでたぶん京極夏彦とかでも入ると思います。本に取り付けたときに下に来る方の曲げ部は位置を固定しても問題がないので、曲げた状態で縫い付けてあります。

f:id:urutakonbe:20160104140043j:plain

裏側。

 

f:id:urutakonbe:20160104140224j:plain

いかがでしたでしょうか。

今回は割とかっこいいのができた気がします。かっこよすぎて電車とかで使うのを躊躇うレベル。欲を言えば文字の側が少し寂しい気もするので気が向いたときに何か追加するかもしれません(フランス王家の紋章でも入れようかしらん)。

これの欠点としては、鎖が重いので使ってる時に鎖の側がだらーんとなった挙句本から外れることがあります。これが結構不便!この欠点は鎖を使わないことにっよって解決することができます。機構に限った話で言えば別に鎖を使う必要はなく、紐とかでも問題はないので。

 

さて、

 

我々は自由か?

朝起きて仕事に行き帰ってきて寝て、また朝が来る

身体は最早社会の奴隷ではないか。

では、心はどうか?

社会の観念、価値観にとらわれて本当の自分を失っていはしないだろうか?

居もしない他人のために生きてはいないだろうか?

奴隷根性を植え付けられ、ともすればそれを誇りに思ってはいないだろうか?

身も心も社会の奴隷に成り下がってはいないだろうか?

今こそ革命の時である!

囚われの自己を解放せよ!

読書による精神の解放を!

革命的ブックカバーを使って革命的読書ライフを楽しもうではないか!

以上!解散!

 

BGM ショスタコーヴィチ 交響曲5番「革命」より第4楽章


ショスタコーヴィチ 交響曲第5番「革命」第4楽章

(フランスじゃないっていう)

破壊しよう、人生を 書を捨てよ、町へ出よう

昭和が面白い今日この頃。今回は寺山修司「書を捨てよ、町へ出よう」を読みました。

 

書を捨てよ、町へ出よう (角川文庫)

 

 

あらすじ!

稀代のアジテーター寺山修司による、つまらない人生をつまらないまま終わらせないための指南の書。

あらすじ終わり!

 

 正直なところ、序盤は「何言ってんだこいつ頭おかしいんじゃねぇの」と思わなかったではないんですけど、進んでいくにつれて面白くなっていったので最初だけは老人の戯言を聞いてあげるくらいの気持ちで読み飛ばしてもいいのかと思った。それか、当時はこんな理屈がまかり通ったのかと感慨にふけってみたりしてもいいのかもしれない。だって「卓球より野球の方が、野球よりサッカーの方が男性的だ。それはタマがデカいからだ」(意訳)みたいなことが本気で書いてあるんですよ。(いや、飲み会のノリで書かれた可能性もあるけど。)さすがにこれでは「そこに気付くとは流石寺山!よ!寺山屋!」とはなれないので、序盤については「そうかー、当時はサッカーブームだったかー」「当時の若者は過激だったなー」くらいの感想でよかったかと。

名作って時代を切り取らないから100年前の本でも楽しく読めるものが多いと思うから、こんなに時代を切り取っている(たぶん)名作というのも逆に珍しいかもしれない。

 

 後半はですね、割と時代を問わず楽しめると思われる話でした。

テーマ的には、「ファイトクラブ」とかが近いのかもしれない。

 

urutakonbe.hatenadiary.jp

 

 

っていうのもですね。おそらく誰もが感じたことがあるであろう「人生のつまらなさ」に抗うための寺山式の方法論が語られるからであります。

 

曰く、「一点破壊による人間の回復を」

 

私たちが慢性的に「人生のつまらなさ」を感じてしまうのは何故か?

それは人生の先がほとんど完全に見通せてしまう状態を良しとする「バランス主義」によるものである。

人生この先結婚したり子供ができたり定年したり老後の生活なんかも考えないといけないから、それまでに貯蓄をうまいことやりくりして、とにかく全てのイベントを平穏無事に済ませることが素晴らしいのであり、そのためには身なり、食生活、その他の嗜みについても分相応であることが望ましく、細く長く天寿を全うすることこそが幸せなのである。

というのが「バランス主義」。何の修飾語もなしに使われる「幸せ」って言ったらたぶんこういうのを指すんではないかしらん。

そしてそれの全く逆をいくのが寺山修司でございます。

 

先の見え透いた人生なんてまっぴらごめんだ。金は賭博につぎ込もうぜ。分相応なんてくだらない。例え短い生涯でも美しく死ねれば本望でございます。さよならだけが人生だ。

という具合。

 

こうやって抜き出して書くとただのアホ頭みたいになっちゃうんだけど、ちゃんと本に纏められたものを脈絡に則って読むとちゃんと人生の教科書として読めちゃうんですよ。

極端に書くと上記のようになってしまうんですけど、なにも破滅の一途を辿ろうぜと言うような集団自殺推進の書ではないんです。なんと言いますか、つまらない人生に張りを与えるためにどこかで一つくらい極端なことやってみようぜ!ってくらいの解釈でいいんだと思います。

 

例えば賭博です。

人生この先働いて働いて終わるだけ。そんなのは嫌じゃないですか。

ならば競馬に行きましょう。ここらで一つドーンと当てて人生アがってしまいましょう。それは可能性で言えばほんの1000分の1%程度かもしれません。それでも完全な0ではないのならばそれは希望になりえます。

誰も絶対当たらないと思って馬券を買う人はいないのです。もしかしたらいつかデカい当たりが来るかもしれない。もし万馬券が当たったら会社なんてスパッと辞めて残りの人生遊んで暮らすんだ!と思い続けることができるならば賭博も結構悪くないんじゃないですか?

 

それに寺山修司のころよりも時代は進んでいるので方法は賭博に限る必要もないと思います。ちょっと大多数の人はやらないような極端なことをやってみればいいんです。

そんなにお金をかけない方法でも、youtubeとかニコニコに動画を投稿してみるでもいいし、同人誌とかを出してみるでもいいし、ミュージシャンとして路上デビューしてみるでもいいし、化石とか金とか油田を掘りに行ってみるとかでもいいでしょう。(出来れば先人のいない未開拓なゾーンを突くことができると素敵なんですが)

なんならこのブログだって書き続けてれば、なんか書籍化とかされてなんか売れてなんかもう働かなくていいやーみたいなことになる可能性が10000分の1%くらいはあるんじゃないですか。それってワクワクしますよね。

 

「それでもいつか、きっと」と希望を持つことによって人生の不透明さが増し、頑張る気力も湧いてくるものです。

寺山式の一点破壊の手法については私はだいたいこんなふうに読み取りました。本で読んだ方がこの手法についてもちゃんと理解できるし、面白いのでオススメです。

 

その他にも「一点豪華主義」の話や、「自殺学入門」など興味深い章がいくつもありますよー。

 

もしかしたらこの本を手に取った瞬間から「一点破壊」が始まるかもしれません。

読み終わったらこの本を捨てて街へ繰り出しましょう。

さよならだけが人生だ。

 

 

(正直、別に本を捨てる必要はないと思うんだけど)

 

BGM 

上坂すみれ 「げんし、女子は、たいようだった。」

”書を捨てないで街へ出て キミと出会いたい”


げんし、女子は、たいようだった。/上坂すみれ

あの時代のお話ですよ! 四谷シモン「人形作家」

変なものを作っている人のことは知りたくなるのです。

今回は四谷シモン「人形作家」を読みましたよー。

 

人形作家 (講談社現代新書)

 

 

あらすじ!

今や人形作家としての地位を不動のものとした四谷シモン。いま語られる彼の半生。

あらすじ終わり!

 

 60年~70年代くらいの風景、つまり文化、芸術、運動とかっていうのは自分の関心を引く概念の一大勢力でございまして、まさにその年代を舞台に書かれたこの本は実に興味深い素敵な本でございました。

何でこのくらいの年代に引かれるかっていうのを自分なりに考えたんですけど、この年代の文化って意味が分からないんですよね。出自不明で行方不明。どこから来てどこへ行ったのか、今どこにいるのかすらいまいち分からない。(ネットで調べると細々と、しかし脈々と続けられてはいるようなのですが)

西洋の文化、芸術とかにはそんなこと思わないんですよね。っていうのは、それぞれの様式の中で作られてる気がするから。ゴシック様式ロココ調、ロマン派、新古典主義、それぞれの時代性とか宗教観なんかに根差したものが作られてたんだなー、ここが発達してこうなるわけねっていうのが、 わからないなりに分かった気にはなれるんです。シュルレアリズムなんかでさえ「夢の中の世界や、だって夢って素敵やん」と言われれば一応納得できる。

 

しかし、60~70年代の文化ってわからないんですよ。「アングラ芸術」とか「アングラ演劇」「アングラ映画」とかね。本来ジャンルで言えば「その他」に入るようなやつにしょうがないから「アングラ」ってつけた感がある。

無から湧いたかのようにただそこにある感じなんだけど、そんなはずはないと思うから、知りたいんです。そして私は本を読むのです。

 

本の話をしましょう。

 

「人形作家」という本では四谷シモンさんの半自伝みたいな本で幼少期から始まり今の(出版当時の)四谷シモンになるまでのノンフィクションな軌跡が語られます。壮絶だったり破天荒だったり破綻していたりするのだけれど、武勇伝のように誇張するわけでもなくあったことをあった分だけ語るような文章に四谷シモンさんの(今の)人となりを感じたりしました。

 

四谷シモンさんは才能に満ちた人であるように思います。(ここでの「才能」っていうのは、「謎の行動力」とかもですが「一般的でない家庭環境」とか「社会にあんまり迎合しないところ」とか「ただならぬ縁」とかも含みます)「才能」は憧れますけど「四谷シモンと同じ家庭環境」に生まれたかったかって言われると迷う所です。

 

で、やはり四谷シモンと言えども同時代の作家や偉大な先人の影響を受けたらしく。ハンス・ベルメールとかに衝撃を受けたって書いてあるんだけど、それでもシモンドールたちが確固たる四谷シモンの作品でしかないっていうのはその「才能」によるもので、要は「四谷シモン」は「四谷シモン」から始まってるんだなーっていうのが感じられる内容でした。例えば「ハンス・ベルメール」から始まったわけではないっていうこと。1から始めたか0から始めたかみたいな違い。

 

同時代の作家、芸術家、役者なんかがまた凄まじくて、だって状況劇場唐十郎四谷シモンがいて、横尾忠則がポスターを描き、天井桟敷には寺山修二がいて、土方巽暗黒舞踏渋沢龍彦サド裁判してるとか。正直ちょっと訳が分からない。え、魍魎が跋扈してるの?え、あの人たちって架空の伝説の魔人かなんかじゃなかったの?っていうメンバーがめちゃくちゃ出てくる。しかも人間として出てくる。すげぇ!私なんかはこれだけ検索ワードがあれば1年くらいはネットサーフィンできそうです。

 

これだけ訳分からない人たちが同時代にそろってるっていうのはやっぱり何らかのストリームがあったんだよなー、素敵だよなー、近づきたいなー。

このメンバーにあって今失われつつあるものって「反社会性」かもなーとかふと思ったのだけれどどうでしょう。

 

本の内容を思い出してみるとなんか基本的に行動様式の全てが道徳の教科書の逆をいく内容だったように思います。今と当時で、時代として「反社会性」を受け入れるかどうかっていう違いはあるのかもしれない。(当時も受け入れられはしなかっただろうけれど、執拗に排除されることはなかったんじゃないかしら。)だとしたら今後「あの時代」が復権するようなことはないのかしら。いやしかしあの人たちって当時は実権を握ってたのか?うーん。現状では分からないということにしておきましょう。

 

あと、四谷シモンさんに関しては、基本的には自分のために人形を作ってるっていうのを感じました。人のために作るにしても大切な特定の個人に対してであって、不特定多数に向けられたガンバレソングとかラブアンドピースなんかでは決してないって気がしました。(最近は「自分のための行動」って悪とみなされる傾向がある気がするから、これも道徳には反するのかも。そんなはずないのにねー。)

 

少なくとも不特定多数に向けたガンバレソングやラブアンドピースなんかよりも。四谷シモンさんの人形の方が素敵に感じる私としては、「人形作家」を道徳の教科書に採用したら世の中面白くなるのになーとか思ったのでした。(早死にする人が増えそうですが)あ、いや、寺山修司の本とかの方が道徳的には効果的かもなー。じゃあ「人形作家」は小学校の図書館に置こう。

 

世界がもっともっと素敵になりますように(私にとって)。

 

 

BGM ニーナ・シモン Ain't Got No, I Got Life

(四谷シモンの名前の元ネタはこの人なんだとか)


Ain't Got No, I Got Life - Nina Simone

脳髄と宇宙の神秘 ボルヘス「伝奇集」

今回はボルヘス「伝奇集」です!「ボルヘスは作家のための作家ー」とかいろいろ噂だけは聞いてたやつを実際どんなものかと読んでみました。

 

伝奇集 (岩波文庫)

(表紙も素敵です)

 

あらすじ!

宇宙

あらすじ終わり!

 

 この本のあらすじらしいあらすじを書くということは私などには現状不可能なことでございまして、しいて言えば宇宙的な何かというところでございます。

たった10頁程度の短編にすら「無限」が詰め込まれているような濃密さで書かれており、私の容量の少ない脳みそではとてもとても処理が追いつかず、何度もフリーズしながらもなんとか読み進め、一応、通読することができました。

通読はしたものの現状自分はこの本の理解からはほど遠いところにいると思われます。

とはいえ、この本を100%理解できる人ってボルヘス本人くらいなんじゃないかって気もするので、まあいいです。

 

で、ここから下は分からないなりにわかったような気がしたり、思ったことを書いていくスペースとなります。

 

この「伝奇集」という短編集の中におさめられている多くは、「無限に繋がる物語」であります。あわせ鏡の中に光の速さで増殖していく自分を見るような、親殺しのパラドックスに陥るような、無限のような、それでもどこかに限りのあるはずと思えるような、あるいはどこかでループしていることに気付いてないだけなのか、脳髄の迷宮のヴァリエーションがページいっぱいに敷き詰められた迷宮総合カタログ。ただしカタログ自体も迷宮で、そのカタログもカタログに載ってる!みたいな感じです。

イデアの1つ1つは実はボルヘスじゃなくとも、「どこかの誰かが思った」ような内容ばかりだと思っていて、何らかの元ネタがあって書かれていると思うのだけれど、それをどれだけ集めたら「伝奇集」が出来上がるのか。その膨大なデータがどうやって処理したら282ページに収まるのかを考えるとこれは途方もない狂気の沙汰、人知の及ばぬ所に住む圧縮妖怪の仕業でございます。

圧縮された情報を理解できるかどうかっていう部分には、読者側の脳内に「解凍ソフト」が入っているかどうかによる気がして、おそらく元ネタとなっている思考に触れたことがある、あるいはそこを通ってきた人ならばスッと理解できるんじゃないかと思います。

1度通読してみて理解できん所が多かったけどまぁいいかと思えるのはそのためで、元ネタがあるならばこの先ちゃんと読書を続けていれば「伝奇集」をもっとしっかりと理解できるようになれるはずだと思えるから。

⇒まだまだ読まなければならない楽しい本が無限にあるということを実感できたから!(ここにも無限が!)こんなに嬉しいことはない!

 

 

科学の発達によって妖怪はいなくなりました。神は死にました。エベレストは80歳の老人にまで頂を踏まれ、この地上にはもう人類の到達できない土地はないかのように思われます。そんな現代!人類に最後に残された神秘は脳髄と宇宙くらいなのではないでしょうか。

思うに、「神秘」というものは人を動かす原動力になります。あまねく全てが十全で分からないことが何もない世界はおそらくあまりにもつまらない。実際そうはなりえないのだけれど、近頃の分かりっぷりにはそのように錯覚させてしまうような全能感があります。

「伝奇集」はそんな現代において今もなお我々に膨大過ぎる「神秘=希望」を提示してくれる素敵すぎる本でした。

(しかも、本人はただ思考実験で遊んでるだけっぽいところも好き)

 

BGM ピアソラ Fuga y misterio


Fuga y misterio

金田一さんと怪事件探訪 病院坂の首縊りの家(原作の方)

初めての金田一耕助シリーズです!病院坂の首縊りの家

映画じゃなくて原作の方です!

病院坂の首縊りの家―金田一耕助最後の事件

なんでよりによって初の金田一耕助シリーズが「金田一耕助最後の事件」であるところの本作であるかという所でございますが、たまたま古本屋でこの素敵なハードカバーと巡り合うことができたからっていうだけでございます。本来ならもっと先に読むべきなのがあると思うんだけど、まぁ、いいじゃん。

 

まずはタイトルからいきましょう。

病院坂の首縊りの家

このタイトル!

横溝先生の本を読もうと思ってから他の横溝作品のことも調べてみたんですけど、「病院坂の首縊りの家」が一番かっこいいんじゃないかと思いました。もちろん主観ですが。「病院坂」と「首縊りの家」という訳が分からないけどなにやら不吉なワードが合わさった結果、相乗効果で4倍は恐ろしいタイトルになっています。 

 

で、この表紙絵ですよ!

風鈴と眼とお嫁さんという訳の分からない組み合わせが訳が分からないくらい恐ろしい素敵な表紙です。横溝作品は総じて杉本一文さんという方が表紙を描いておりまして、どの表紙も素晴らしく、一見の価値ありです。(ネットにまとめが上がっています)

背表紙にあるタイトルだけでも禍々しく、手に取って表紙を見ては戦慄する、本棚に置いてあるだけでも嬉しくなるような本!

80年代くらいまでの本とかその他カルチャーって、どこからきてどこへ行ったのかよくわからない、その年代にしかなかった謎の魔力を放つ作品群がある気がして、私もその魔性に取り付かれた一人であります。

 

内容に参りましょう。

あらすじ!

代々医者の家系の法眼一族の家庭の事情はびっくりするくらい複雑なのであった!

あらすじ終わり!

 

 しかしながら!その複雑すぎる家庭事情が全部が全部必要な複雑さであったかというと甚だ疑問でありまして、正直なところ読み終わった今でもちゃんと理解出来ていない(と思う)のだけれど、主要な血脈による因縁については(おそらく)理解できているので、そ、そこまで複雑にしなくても良かったんじゃ、、、と思います。

(これを簡略化するとつまらなくなっちゃうんでしょうか?どうなんだろう。)

この複雑さ、偏執的で素敵ではありますが、まぁ、そこまで頑張って全部理解しなくてもいいんじゃないかと思います。

かなり長い本で、横溝先生としてもあとがきに「長くなっちゃった、てへぺろ。」(意訳)って書いてるくらいなので、頑張って覚えても読んでる途中で忘れちゃいます。

しかも長くなりすぎたという自覚のある横溝先生は、ある真実が明かされるとき、関係する血縁や因縁についてはおさらいに行数を裂いてくれていますので、(それでまた長くなるけど)付箋を貼りながら読まないといけないようなこともないです。

 

新本格だとか変格だとかを読んできた身としては、これくらい古い作品になると、トリックだとかのミステリ的な面白さは正直あんまりないんだけれど、その後のミステリの下地になるような「本格の様式美」みたいなのが感じられてとてもよかったです。

血脈の因縁、見立て殺人、そっくりさん、忌まわしい土地、へっぽこ刑事に名探偵と殺人フラグびんびんビンちゃんな状況でやっぱり殺人事件が起こります。そんな胡散臭い素材をふんだんに盛り込んだ素敵な情景たちに酔うことができます。なんだろう、マムシ酒みたいな胡散臭さ。

見立て殺人なんかは、いまどきのミステリでやっちゃうとただの愉快犯みたいになっちゃう(と思う)から、やっぱりこの時代の本格の真骨頂な気がします。

 

で、なんといっても終盤!真実が明かされる告白パートの熱量!ですよ!

時を超えて世代を超えて溜めに溜めた因縁!恨みつらみ、憎しみ、そして愛!その他諸々の感情が溢れ出すようで長く読んできた甲斐があったと思えるラストスパートでございました。

最後の最後まで弱さを全く見せない、才色兼備の完璧超人であり続けた弥生さんが素敵です。そんなになってまで、法眼一族を守るために戦ってきたんでしょうか。

由香里さん()や滋さんも恐喝野郎もみんな”執念”みたいなものが非常に強くて、平成のシャレオツ文化によって失われてしまった妄信的な”熱さ”のようなものを感じました。

 

そしてエピローグ的に語られる金田一耕助の消失。金田一の最後は行方不明なんですね。リドルストーリーみたいで妄想の余地を残してるんですね。そういえば、この終わりなら「金田一少年」の方も存在する可能性が否定はできない訳ですね。

 

金田一耕助シリーズを初めて読んでみて、金田一耕助ってなんかよくわからない人なんだなーと思いました。別に悪い意味ではなく。作中で金田一耕助の主観で語られることがないから、金田一耕助は何が楽しくて探偵なんかやってるのか、とか、他の登場人物のことをどう思ってるのか、とか分からないんです(仲良さげにしてる割に相手のこと何とも思ってない、とか普通にありそう)。依頼がなければ動かなそうだから、「悪を絶対許さない正義超人」って訳でもなさそうだし、だからと言って金のためにやってるっていうのもなぁ、、、でも金のためにやってると思われたい人ではある気がするし、なんだろう、根はいい人で、恥ずかしがり屋さんなんでしょうか。

真実がどうだろうと端から見て好人物に映るのは間違いなさそうです。

 

えぇ。金田一耕助と共に怪事件を訪問するような楽しい読書でございました。