世界の限界を超えるための 論理哲学論考
「素晴らしき日々」をクリア後に読みかけて挫折してしばらく積んであった「論理哲学論考」を遂に読み終わったので、それについて書きますよー。
- 作者: ウィトゲンシュタイン,野矢茂樹
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2003/08/20
- メディア: 文庫
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まず、私のこの本の理解度は正直低いってことだけは先に断っておきます。
その上で、分かったような気になれた部分について、私の解釈と、拡大解釈と、誤解と、ただの私の話なんかを書けたらいいなー。
この本は何を書いたかっていうと
自分の思考や、自分の世界の限界≒自分の想像できる範囲、表現できうる範囲を明確にして、それ以上は踏み込まないようにしましょうねー、みたいなこと。
世界の限界に線を引くためこの本では、個人や人類が知り得る要素を「a」だの「b」だのと、操作を「R」だのと一般化し、あーだこーだと論理をこねくり回すことによって、既存の材料で導き出すことのできる限界を規定します。
そして
「語りえぬものについては、沈黙せねばならない。」
その限界を規定する過程が偏執的にややこしくて、なんというか、山を語るために砂粒の定義から始めるような徹底ぶり。「山は大量の砂粒が積もった場所」ってくらいだったらまだいいのだけど、「山は高く隆起した土地であり大量の砂粒と水と木と生物たちが相互に作用しあって生態系を形成している。ここでの相互作用とは・・・」っていうレベルになってくるのでもうついていけない。分かるところだけ分かるという感じ。
執拗に定義と関連付けを繰り返していく感じとか、命題が”真”だの”偽”だのっていう論理展開は2進数ちっくでプログラミングとかなら近いのかなーと思います。
有限要素解析みたいな考え方とか、ニュートン力学とかの話も出てくるから、理系の人の方が理解しやすいのかも。
で、
世界の限界、「語りえぬもの」のことについての線引きできると何が嬉しいの?ってことを考え出すと楽しくなってきます。
そもそもウィトゲンシュタインさんにはこんなややこしい内容を本に纏めてまで「語りえぬものについては沈黙しなければならない」って言わずにはいられない理由があったんじゃないかと思ったり。それってきっと偉大な諸先輩方が語りえぬ内容を無理に語ろうとして終わらぬ議論を続けてるのが煩わしくて、偉大な知性が無駄に浪費されていくのが悲しくて、「うるせぇ黙れよ」って言いたくなったんじゃないかなーとか妄想して、パンク!素敵!とか思っちゃいます。
(これは完全に語りえぬ範疇の話だけど)
妄想以外にも、世界の限界を見極められるとちゃんといろいろ便利なんです。
なんというか、四捨五入の概念の発明?というか分数の概念の導入?
今までは「10÷3=3.33333333333333333333333333・・・・・・・」だったのが、「10÷3=3.33 (小数点3桁以下四捨五入)」とか「10÷3=10/3」で許される世界!
(「10÷3=10/3」て、なんてトートロジー!)
要は、「終わらない議論」が終わるんです。
「わからないもの」はわからないって言いきれます。
このわからないものって言うのも、「相対的にわからない」場合と「絶対的にわからない」場合が あると思うんですけど、
「相対的にわからない」ことって、例えば、「今日のモスクワの天気」とか。現地の人に聞いたりネットで調べたり、分かる方法はあるんだろうけど「私は知らん」案件。
「絶対的にわからない」ことは、例えば「宇宙の外側」とか「死後の世界」とか「他人の気持ち」とか、もーマジ無理、絶対絶望絶好調案件。
世界の限界の線引きができると「相対的にわからないもの」は分かるための材料が揃うまで保留にできるし、「絶対的にわからないもの」については考えなくてよくなります。それってかなり楽だし、実のあることに全精力を傾けることができることになるので、すごく前向きって気がします。
えー、生きとし生ける者の悩みってのは基本的には、「自分の世界と他人の世界」の不整合から来るものだと思っていて、「自分ではどう考えても”こう”あるべきはずなのに、実際そうでない」ことにより生じるフラストレーションに心と身体を蝕まれ、たまには死ぬこともある。
「論理哲学論考」を読んだところでフラストレーションが消えるわけではないけど「自分の世界」と「他人の世界」が別物であることが認識できれば少しは諦めがつくというもの。永遠に許さないけど諦めはつく。それで整合性がとれる。
すいません、もう少し楽しい話をしましょう。
思考の限界≒世界の限界に線を引くことができると、「私の世界」に関しては、限界を超えるためのアプローチについていろいろ考えられる気がします。
簡単なようで難しい、もしくは、難しいようで簡単な方法なのだけど、それってつまり「世界の外側」を探すこと。
「人は見たいものしか見ない」っていう性質があって、「自分の世界」の外側にあるものは認識できないんです。すぐそこにあって、網膜には像として確実に映り込んでいてもそれが認識できず、無意識の闇に消えるのみってことはよくあることです。
「行きつけの本屋さんのことを完全に知り尽くしている気でいたのに、実は1度も入ったことのないコーナーが結構あった」みたいな。自分がよく買う幻想文学のコーナーだけ覗いて本屋の全てを知った気になっていたけど、BLのコーナーが存在することすら知らなかった、と言うことはよくあることです。
(本屋さんで巡回する範囲を調べると、自分の世界の大きさを測るバロメータになるかも、とか今思った。狭すぎて愕然とするけど。)
だから、世界の限界を超える方法があるとすれば、それは、「本屋さんに行って、自分が入ったことがないコーナーから適当に本を買う(寓意)」ことなんじゃないかなー。
興味がない本買ったって無駄じゃん、ってなるかもしれませんが、その通りで既存の自分の価値観では無駄に思えるものだからこそ、それまでの自分の世界になかったものか書かれているんじゃないかと思います。
(まぁ、ちょっとぐらいは自分の世界と被ってる部分がないと、そもそも「読めない」って事態にもなり得るけど。それはそれで一旦保留にするのもありだし。)
そんなことをしていると稀に、訳が分からないのだけど何か凄いもの。確かに凄いのに訳が分からないから凄い!やばい!としか言えないものに出会うことがあって、それって神秘だなーって思います。
「サド」の本とかを読んで、やってることは醜悪そのもののはずなのに、なぜか美しさを感じるのって、きっとそこに神秘があるからだ。
ドールを可愛いと感じるのもそこに神秘があるからだ。
12音とリズムの組み合わせでしかないはずの音楽の旋律に対して、美しいと感じることがあるのも神秘です。
これからも沢山の神秘に出会えますように。
ED 大森靖子ちゃん 「draw (A) drow」
(大森さんはウィトゲンシュタインみたいに体系的ではないんだろうけど、感覚的には論理哲学論考を正確に理解してそうだからやばいよなー)