あの時代のお話ですよ! 四谷シモン「人形作家」
変なものを作っている人のことは知りたくなるのです。
今回は四谷シモン「人形作家」を読みましたよー。
あらすじ!
今や人形作家としての地位を不動のものとした四谷シモン。いま語られる彼の半生。
あらすじ終わり!
60年~70年代くらいの風景、つまり文化、芸術、運動とかっていうのは自分の関心を引く概念の一大勢力でございまして、まさにその年代を舞台に書かれたこの本は実に興味深い素敵な本でございました。
何でこのくらいの年代に引かれるかっていうのを自分なりに考えたんですけど、この年代の文化って意味が分からないんですよね。出自不明で行方不明。どこから来てどこへ行ったのか、今どこにいるのかすらいまいち分からない。(ネットで調べると細々と、しかし脈々と続けられてはいるようなのですが)
西洋の文化、芸術とかにはそんなこと思わないんですよね。っていうのは、それぞれの様式の中で作られてる気がするから。ゴシック様式、ロココ調、ロマン派、新古典主義、それぞれの時代性とか宗教観なんかに根差したものが作られてたんだなー、ここが発達してこうなるわけねっていうのが、 わからないなりに分かった気にはなれるんです。シュルレアリズムなんかでさえ「夢の中の世界や、だって夢って素敵やん」と言われれば一応納得できる。
しかし、60~70年代の文化ってわからないんですよ。「アングラ芸術」とか「アングラ演劇」「アングラ映画」とかね。本来ジャンルで言えば「その他」に入るようなやつにしょうがないから「アングラ」ってつけた感がある。
無から湧いたかのようにただそこにある感じなんだけど、そんなはずはないと思うから、知りたいんです。そして私は本を読むのです。
本の話をしましょう。
「人形作家」という本では四谷シモンさんの半自伝みたいな本で幼少期から始まり今の(出版当時の)四谷シモンになるまでのノンフィクションな軌跡が語られます。壮絶だったり破天荒だったり破綻していたりするのだけれど、武勇伝のように誇張するわけでもなくあったことをあった分だけ語るような文章に四谷シモンさんの(今の)人となりを感じたりしました。
四谷シモンさんは才能に満ちた人であるように思います。(ここでの「才能」っていうのは、「謎の行動力」とかもですが「一般的でない家庭環境」とか「社会にあんまり迎合しないところ」とか「ただならぬ縁」とかも含みます)「才能」は憧れますけど「四谷シモンと同じ家庭環境」に生まれたかったかって言われると迷う所です。
で、やはり四谷シモンと言えども同時代の作家や偉大な先人の影響を受けたらしく。ハンス・ベルメールとかに衝撃を受けたって書いてあるんだけど、それでもシモンドールたちが確固たる四谷シモンの作品でしかないっていうのはその「才能」によるもので、要は「四谷シモン」は「四谷シモン」から始まってるんだなーっていうのが感じられる内容でした。例えば「ハンス・ベルメール」から始まったわけではないっていうこと。1から始めたか0から始めたかみたいな違い。
同時代の作家、芸術家、役者なんかがまた凄まじくて、だって状況劇場に唐十郎に四谷シモンがいて、横尾忠則がポスターを描き、天井桟敷には寺山修二がいて、土方巽は暗黒舞踏、渋沢龍彦がサド裁判してるとか。正直ちょっと訳が分からない。え、魍魎が跋扈してるの?え、あの人たちって架空の伝説の魔人かなんかじゃなかったの?っていうメンバーがめちゃくちゃ出てくる。しかも人間として出てくる。すげぇ!私なんかはこれだけ検索ワードがあれば1年くらいはネットサーフィンできそうです。
これだけ訳分からない人たちが同時代にそろってるっていうのはやっぱり何らかのストリームがあったんだよなー、素敵だよなー、近づきたいなー。
このメンバーにあって今失われつつあるものって「反社会性」かもなーとかふと思ったのだけれどどうでしょう。
本の内容を思い出してみるとなんか基本的に行動様式の全てが道徳の教科書の逆をいく内容だったように思います。今と当時で、時代として「反社会性」を受け入れるかどうかっていう違いはあるのかもしれない。(当時も受け入れられはしなかっただろうけれど、執拗に排除されることはなかったんじゃないかしら。)だとしたら今後「あの時代」が復権するようなことはないのかしら。いやしかしあの人たちって当時は実権を握ってたのか?うーん。現状では分からないということにしておきましょう。
あと、四谷シモンさんに関しては、基本的には自分のために人形を作ってるっていうのを感じました。人のために作るにしても大切な特定の個人に対してであって、不特定多数に向けられたガンバレソングとかラブアンドピースなんかでは決してないって気がしました。(最近は「自分のための行動」って悪とみなされる傾向がある気がするから、これも道徳には反するのかも。そんなはずないのにねー。)
少なくとも不特定多数に向けたガンバレソングやラブアンドピースなんかよりも。四谷シモンさんの人形の方が素敵に感じる私としては、「人形作家」を道徳の教科書に採用したら世の中面白くなるのになーとか思ったのでした。(早死にする人が増えそうですが)あ、いや、寺山修司の本とかの方が道徳的には効果的かもなー。じゃあ「人形作家」は小学校の図書館に置こう。
世界がもっともっと素敵になりますように(私にとって)。
BGM ニーナ・シモン Ain't Got No, I Got Life
(四谷シモンの名前の元ネタはこの人なんだとか)
脳髄と宇宙の神秘 ボルヘス「伝奇集」
今回はボルヘス「伝奇集」です!「ボルヘスは作家のための作家ー」とかいろいろ噂だけは聞いてたやつを実際どんなものかと読んでみました。
(表紙も素敵です)
あらすじ!
宇宙
あらすじ終わり!
この本のあらすじらしいあらすじを書くということは私などには現状不可能なことでございまして、しいて言えば宇宙的な何かというところでございます。
たった10頁程度の短編にすら「無限」が詰め込まれているような濃密さで書かれており、私の容量の少ない脳みそではとてもとても処理が追いつかず、何度もフリーズしながらもなんとか読み進め、一応、通読することができました。
通読はしたものの現状自分はこの本の理解からはほど遠いところにいると思われます。
とはいえ、この本を100%理解できる人ってボルヘス本人くらいなんじゃないかって気もするので、まあいいです。
で、ここから下は分からないなりにわかったような気がしたり、思ったことを書いていくスペースとなります。
この「伝奇集」という短編集の中におさめられている多くは、「無限に繋がる物語」であります。あわせ鏡の中に光の速さで増殖していく自分を見るような、親殺しのパラドックスに陥るような、無限のような、それでもどこかに限りのあるはずと思えるような、あるいはどこかでループしていることに気付いてないだけなのか、脳髄の迷宮のヴァリエーションがページいっぱいに敷き詰められた迷宮総合カタログ。ただしカタログ自体も迷宮で、そのカタログもカタログに載ってる!みたいな感じです。
アイデアの1つ1つは実はボルヘスじゃなくとも、「どこかの誰かが思った」ような内容ばかりだと思っていて、何らかの元ネタがあって書かれていると思うのだけれど、それをどれだけ集めたら「伝奇集」が出来上がるのか。その膨大なデータがどうやって処理したら282ページに収まるのかを考えるとこれは途方もない狂気の沙汰、人知の及ばぬ所に住む圧縮妖怪の仕業でございます。
圧縮された情報を理解できるかどうかっていう部分には、読者側の脳内に「解凍ソフト」が入っているかどうかによる気がして、おそらく元ネタとなっている思考に触れたことがある、あるいはそこを通ってきた人ならばスッと理解できるんじゃないかと思います。
1度通読してみて理解できん所が多かったけどまぁいいかと思えるのはそのためで、元ネタがあるならばこの先ちゃんと読書を続けていれば「伝奇集」をもっとしっかりと理解できるようになれるはずだと思えるから。
⇒まだまだ読まなければならない楽しい本が無限にあるということを実感できたから!(ここにも無限が!)こんなに嬉しいことはない!
科学の発達によって妖怪はいなくなりました。神は死にました。エベレストは80歳の老人にまで頂を踏まれ、この地上にはもう人類の到達できない土地はないかのように思われます。そんな現代!人類に最後に残された神秘は脳髄と宇宙くらいなのではないでしょうか。
思うに、「神秘」というものは人を動かす原動力になります。あまねく全てが十全で分からないことが何もない世界はおそらくあまりにもつまらない。実際そうはなりえないのだけれど、近頃の分かりっぷりにはそのように錯覚させてしまうような全能感があります。
「伝奇集」はそんな現代において今もなお我々に膨大過ぎる「神秘=希望」を提示してくれる素敵すぎる本でした。
(しかも、本人はただ思考実験で遊んでるだけっぽいところも好き)
BGM ピアソラ Fuga y misterio
金田一さんと怪事件探訪 病院坂の首縊りの家(原作の方)
映画じゃなくて原作の方です!
なんでよりによって初の金田一耕助シリーズが「金田一耕助最後の事件」であるところの本作であるかという所でございますが、たまたま古本屋でこの素敵なハードカバーと巡り合うことができたからっていうだけでございます。本来ならもっと先に読むべきなのがあると思うんだけど、まぁ、いいじゃん。
まずはタイトルからいきましょう。
このタイトル!
横溝先生の本を読もうと思ってから他の横溝作品のことも調べてみたんですけど、「病院坂の首縊りの家」が一番かっこいいんじゃないかと思いました。もちろん主観ですが。「病院坂」と「首縊りの家」という訳が分からないけどなにやら不吉なワードが合わさった結果、相乗効果で4倍は恐ろしいタイトルになっています。
で、この表紙絵ですよ!
風鈴と眼とお嫁さんという訳の分からない組み合わせが訳が分からないくらい恐ろしい素敵な表紙です。横溝作品は総じて杉本一文さんという方が表紙を描いておりまして、どの表紙も素晴らしく、一見の価値ありです。(ネットにまとめが上がっています)
背表紙にあるタイトルだけでも禍々しく、手に取って表紙を見ては戦慄する、本棚に置いてあるだけでも嬉しくなるような本!
80年代くらいまでの本とかその他カルチャーって、どこからきてどこへ行ったのかよくわからない、その年代にしかなかった謎の魔力を放つ作品群がある気がして、私もその魔性に取り付かれた一人であります。
内容に参りましょう。
あらすじ!
代々医者の家系の法眼一族の家庭の事情はびっくりするくらい複雑なのであった!
あらすじ終わり!
しかしながら!その複雑すぎる家庭事情が全部が全部必要な複雑さであったかというと甚だ疑問でありまして、正直なところ読み終わった今でもちゃんと理解出来ていない(と思う)のだけれど、主要な血脈による因縁については(おそらく)理解できているので、そ、そこまで複雑にしなくても良かったんじゃ、、、と思います。
(これを簡略化するとつまらなくなっちゃうんでしょうか?どうなんだろう。)
この複雑さ、偏執的で素敵ではありますが、まぁ、そこまで頑張って全部理解しなくてもいいんじゃないかと思います。
かなり長い本で、横溝先生としてもあとがきに「長くなっちゃった、てへぺろ。」(意訳)って書いてるくらいなので、頑張って覚えても読んでる途中で忘れちゃいます。
しかも長くなりすぎたという自覚のある横溝先生は、ある真実が明かされるとき、関係する血縁や因縁についてはおさらいに行数を裂いてくれていますので、(それでまた長くなるけど)付箋を貼りながら読まないといけないようなこともないです。
新本格だとか変格だとかを読んできた身としては、これくらい古い作品になると、トリックだとかのミステリ的な面白さは正直あんまりないんだけれど、その後のミステリの下地になるような「本格の様式美」みたいなのが感じられてとてもよかったです。
血脈の因縁、見立て殺人、そっくりさん、忌まわしい土地、へっぽこ刑事に名探偵と殺人フラグびんびんビンちゃんな状況でやっぱり殺人事件が起こります。そんな胡散臭い素材をふんだんに盛り込んだ素敵な情景たちに酔うことができます。なんだろう、マムシ酒みたいな胡散臭さ。
見立て殺人なんかは、いまどきのミステリでやっちゃうとただの愉快犯みたいになっちゃう(と思う)から、やっぱりこの時代の本格の真骨頂な気がします。
で、なんといっても終盤!真実が明かされる告白パートの熱量!ですよ!
時を超えて世代を超えて溜めに溜めた因縁!恨みつらみ、憎しみ、そして愛!その他諸々の感情が溢れ出すようで長く読んできた甲斐があったと思えるラストスパートでございました。
最後の最後まで弱さを全く見せない、才色兼備の完璧超人であり続けた弥生さんが素敵です。そんなになってまで、法眼一族を守るために戦ってきたんでしょうか。
由香里さん()や滋さんも恐喝野郎もみんな”執念”みたいなものが非常に強くて、平成のシャレオツ文化によって失われてしまった妄信的な”熱さ”のようなものを感じました。
そしてエピローグ的に語られる金田一耕助の消失。金田一の最後は行方不明なんですね。リドルストーリーみたいで妄想の余地を残してるんですね。そういえば、この終わりなら「金田一少年」の方も存在する可能性が否定はできない訳ですね。
金田一耕助シリーズを初めて読んでみて、金田一耕助ってなんかよくわからない人なんだなーと思いました。別に悪い意味ではなく。作中で金田一耕助の主観で語られることがないから、金田一耕助は何が楽しくて探偵なんかやってるのか、とか、他の登場人物のことをどう思ってるのか、とか分からないんです(仲良さげにしてる割に相手のこと何とも思ってない、とか普通にありそう)。依頼がなければ動かなそうだから、「悪を絶対許さない正義超人」って訳でもなさそうだし、だからと言って金のためにやってるっていうのもなぁ、、、でも金のためにやってると思われたい人ではある気がするし、なんだろう、根はいい人で、恥ずかしがり屋さんなんでしょうか。
真実がどうだろうと端から見て好人物に映るのは間違いなさそうです。
えぇ。金田一耕助と共に怪事件を訪問するような楽しい読書でございました。
自由落下の加速度で今を生きる 俺たちに明日はない
ボニーとクライド!
「出会ってしまった危険な2人」の代名詞でもある彼らは何者であり、どう生きてどう死んだのか?
気になったので見てみました。映画!俺たちに明日はない!
あらすじ!
たまたま出会ったボニーとクライドはお互いにピンとくるものがあって強盗で生計を立てながらふらふらと生きていくことにしたのである!
あらすじ終わり!
この映画のラストは火を見るよりも明らかってやつでありまして、強盗で生計を立てようなんて奴らが渡っていける世なんてないのでありまして、結局のところ警官隊に打たれて死ぬのであります。そこには奇跡も魔法も、返すどんでんもございません。
そんなのはWikipediaにも書いてあるし、タイトルだってそういってる。「俺たちに明日はない」
普通に考えてバカとクズが他人に迷惑かけて挙句に死んだっていうだけのことなんだけど、これがどういうわけか凄く素敵だから困る。
そんな生き方になんか美学のようなものを感じるから 本当に困る。
人道に反した生き方を貫き通したことによって、死してなお人々を魅了してやまない異人っていうのは確かに存在して、サドとかバロウズとかジュネとかはそんな感じなんじゃなかろうか。(バロウズとジュネはまだ読んだことないけど)
そのフォルダにボニーとクライドを加えようかと一瞬思ったけど こいつらはたぶんそんなんじゃないな。たぶんそんなに複雑な奴らじゃない。
哲学としては、普通のクソチンピラが「Love and Piece」とか言い出すようなレベルのものしか持ち合わせてなさそうだし、やってることは普通にスタイリッシュでサドとかみたいに変態じゃないし(クライドはゲイだけど)、そんな感じの頭に発泡スチロールでも詰まってそうな奴らに美学を感じるなんて私の脳みそにも蜘蛛の巣はってんじゃないかとちょっと心配になったんです。
で、ちょっと考えたんですけど、この2人の美しさってゆうのは、「もはや誰も止めるは不可能」なところではなかろうかと、思ったのです。
えー、「銀行強盗をしよう」とたくらむ人を思いとどまらせるためにどんな言葉をかけましょう。
「うまくいく訳ないって。」
「失敗したら警察に捕まるか、悪けりゃ撃ち殺されるよ。」
「家族が悲しむよ。」
とかそんな感じでしょうか。
では、
「ダメで元々で、警察に捕まるのも撃ち殺されるのも、家族が悲しむことさえも、覚悟の上で銀行強盗をしたい!」とたくらむ人は、もう止めようがないんですね。
なんて格好いいんだろう。
パラシュートなしで挑むスカイダイビングのように、自由落下の加速度で地面に向かって急降下するボニーとクライド。つなぎとめるものはもはや何もなく、ただパートナーの手を握り「もうあと何秒で地面かしら」なんてつぶやきながら2人は空中遊泳に興じるのであります。そんな楽しい時間もつかの間、思ったよりも早く地面に到達した2人は派手に飛び散って、その屍を遠くから見たら綺麗な赤色の一輪の花に見えるのかもしれません。
何が言いたいのかというと、あいつらはすぐ死ぬ運命にあったけど誰よりも自由で本当に幸福だったのではなかろうかと思ったのです。自由!憧れ!
パラシュートをしてスカイダイビングをできず、紐をつけてさえバンジージャンプもできず、なんなら高いところへ登ろうともせず、ひたすらに地面にへばりついて野垂れ生きている私は、空から降ってくるボニーとクライドを、空を飛んで去っていくヒーローと勘違いしたのかもしれません。
オードリーを連れていきたい フェリーニのローマ
飼い犬が手を噛むので、今回は初めてのフェデリコ・フェリーニです!巨匠!
「フェリーニのローマ」!
なんか他に代表作っぽいのがいっぱいありそうな気がするんだけれど、いつも行ってるレンタル屋さんにはこれしかなかった。
あらすじ!
これが”フェリーニの”ローマだ!
あらすじ終わり!
巨匠の作品にありがちなストーリーのないタイプの映画です。
特に目的があるわけでもなくただただ「フェリーニの思う所によるローマ」を映像化した、という感じで(巨匠には何か深淵な目的があったのかもしれませんが)追うべきストーリーがないので結構眠くなります。
そして、ちょっとくらい寝てしまってもたぶんそれほど問題がありません。ストーリーがないので。
で、眠くなるからと言ってつまらないということは全くなくて、どちらかといえばかなり面白いっていう不思議な映画でした。なんならもう一回見たいですもん。たぶんまた寝てしまうんだろうけれど。
「巨匠のよくわからん映画」って、よくわからんかったけどこれを「よくわからんかった」って言ったらセンスがない人だと思われるから、「なんか面白かった」くらいには言っとこう、っていう心理、あると思うんですけど(過去記事のなかにもそういうのががたぶんあるのだけれど)、「フェリーニのローマ」に関しては、これは明確に「面白かった」です。
じゃあ何が面白かったかっていうと言葉で表現するのが難しいんですけど、私的にはフェリーニさんの映像に(「ローマ」しか知りませんが)他の映画では類を見ない、「魔術的」な印象を受けました。
いやいや、映画の中には奇跡も魔法もないんだよ。それを「魔術的」ってなんぞや、って話なんですけれども、そう思ったんですもん。
そうですね、感覚としては江戸川乱歩の小説を読んだときに近い気がします。
江戸川乱歩、夢野久作、あたりの日本の幻想怪奇を代表する方々の本って、読んだことのある人なら分かると思うんですけど、他に類を見ない「いかがわしさ」「妖しさ」みたいなのがあるんですよ。で、「これは日本独自のやつだわー」「外人には無理なやつだわー」って思ってたところがあって、だいぶ前にそういう記事も書いたんですけど、
フェリーニさんはそういうのをやってた人なのかもしれないなって。
これは個人的にはなかなかの発見なので、今はフェリーニさんの作品をもっと見たい気持ちでいっぱいですよ!だって外人でこんなのがあるとは思ってませんでしたからね!
フェリーニさんと江戸川乱歩の内容的な共通項としては、「見世物」とかが好きそうなところで、あとは個人的には「筋肉少女帯」で繋がりますが、これはたぶん「私の中でフェリーニと江戸川乱歩が繋がってしまった現象」とは関係ないでしょう。
私のローマ
話は変わりまして、ローマの話です。
今回は「フェリーニのローマ」ですので、ここで表現されたのは、私のローマともイタリア人のローマとも違う、イタリア映画界の怪人(今私が考えた通り名ですが)”フェリーニの”ローマ!なのです!巨匠の目を通すとローマはこう見える!
浅学なもので「私のローマ」はジョジョ5部のローマと、オードリーのいるローマくらいのもので、
イメージとしては、陽気な紳士淑女がピッツァを食んだり、ナンパしたり、フラれたりする、ってくらいのものでありましたので、
オードリーが行かなかった裏のローマでは、
賽が投げられたり、猫も投げられたり、頭にはハトを乗せたり、フレスコ画は消失したり、若者はそこらへんで乳繰り合ったり、年寄は娼館で乳繰り合ったり、
してたのかなーなんて思うとちょっと楽しくなります。
オードリーを連れていけないローマ!
「ローマの休日」と「フェリーニのローマ」を一緒にレンタルするのは案外楽しいかもしれません。
きっと、ローマを知る人の数だけ、それぞれのローマが存在するのでしょう。その中でも(たぶん)特に異質なフェリーニのローマ!
は!
あなたのローマとはどう違うか、確かめてみてはいかがでしょうか?
良くも悪くも必ず新しい発見があると思いますよ!
秋の夜長の皮工作 ミシマスラッシュ式ブックカバー
読書家諸氏、秋の夜長をどうお過ごしでしょうか。
いえ、愚問でしたね。読書家の皆さまは「読書の秋」という古き良きフレーズを免罪符として昼夜を問わぬ読書三昧、現実と虚構の間を縦横無尽に駆け回り仕事や学校に支障が出る日々を過ごされているものと推察します。
夜寝る前のひと時に、電車など公共交通機関による移動の最中に、仕事や授業の合間に、空いた時間に少しずつ進めることのできる読書という趣味を持ったことは我々にとってかけがえのない財産なのではないでしょうか。
それにしても人前で本を開くというのはなんともエロティックな行為であります。知識のある人が相手の愛読書3冊も知ることができたなら、その相手の趣味僥倖、価値観、性格、口に出すことも憚れるような願望までも、たちどころに知られてしまうことが容易に想像できるからです。普段秘されている体の部分を晒すのがエロであるならば、服を裂き、皮を剥ぎ、内臓を抉り、脳髄にナイフを突き立てて尚、見ることのできない、心の奥の熱い部分を晒す危険を孕んだ「公共の場での読書」という行為は如何にもエロティックであるように思います。
これを恥として隠してしまうこともできますが、それはどうにも陰険な気もしますし、かといってあけっぴろげにしておくのもお里が知られてしまうようで憚られる。これは随分と厄介な問題であるように思います。
ここでふと思ったのですが、衣服を全て取り払って隠すところなど何もない素っ裸の状態というのはエロではあるのでしょうが深味に欠けるところがあるのかもしれません。
見る側の立場としては、上からかぶせられた薄い衣の下にあるそれが、ふとした瞬間にチロリと覗いてしまうかもしれない状況にこそ心惹かれ、欲情し、ともすればその相手に夢中になってしまうのではないでしょうか。
大いなる世界暦氏の変遷の裏に数々の美女、悪女の存在があったことはよく知られた話でありますが、彼女らは心と身体の最も深いところを決して露わにしない、男を虜にする「秘密を覆う薄い衣」をもってしてこそ、歴史を動かし得たのかもしれません。
であるならば、「公共の場での読書」の際にはやはりブックカバーにより表紙を隠匿するべきであるものの、使用されるブックカバーは全てを覆い隠す厚い衣であってはならない、ということになります。それは如何なるものなのでしょうか。
今回はそんなブックカバー製作の話です。
はい。
そういうわけで前置きが長くなりましたがブックカバーを作ったよーって話です。
前回作った時は文庫サイズだったので今回は単行本サイズです。(新書サイズも作らなきゃ)
今回のコンセプトは二つ。
・表紙がちょっとだけ覗く。(金田一耕助シリーズの表紙が素敵に不気味なので)
・コンパクトで使いやすい。(前回のがえらいかさばる感じだったので)
必要な機構は一つ。
・いろいろな厚みの本に対応できること。
そんなこんなで作ったのがこちらになります。どうぞー。
表 ↓ 裏 ↓
全体 ↓
どうでしょう?
靴ひも方式でブックカバーの裂け目を広げたり狭めたりすることで紐の長さが足りる限りはあらゆる厚さの本に対応できるようになっています。
裂き方をどうするかがセンスの見せどころな方式だと思うんですが、今回は、「病院坂の首縊りの家」を入れることを想定して作ったのでこんな感じになりました。
表紙がこんな感じなので、ブックカバーの裂け目から「目」が覗くようにしました。
\いつも見てるよ/
赤い表紙の本を入れたらいい感じに”傷口”っぽくなるかと思って「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」を入れてみる。
うーん、あんまり傷口っぽくはならないかな。
裂け目の一番下のところで紐をまとめてるやつは、傷口から血が垂れてるイメージだったんですが、あんまりわかんないか。
因みに、余りの紐は栞に使うことができます。
次に「好き好き大好き超愛してる」を入れてみる。
これは個人的には「MOMO色トリック」を思い出す感じです。
ピンクは血の色ピンクは血の色♪
P-Model - Pinky Trick - YouTube
文字ははんだごてで書きました。遠目に見ても下手なのが分かります。
実は文字はない方が普通にスタイリッシュなのですが「普通にスタイリッシュ」なのはあんまり趣味じゃないし、文字を入れてみたかったので。
(しかしながら皮にはんだごてで文字を焼き付けるという行為は「隣の家の少女」を思い出させる実に心の痛む作業でした)
文字の内容は結構悩んだのですが、「SUICIDE MISHIMA SLASH!!」にしました。スーサイドミシマスラッシュ!!
勿論、割腹自殺をした三島由紀夫のことですよ。
ミシマ「MISHIMA」の「H」を忘れたのは愛嬌です。
「切断」と「文学」をキーワードに、語感が良くて不謹慎な言葉を。と思って考えたらこんな感じになりました。なんか「己の美学」のために死ねる人なんだなって気がしませんか?しませんか。
あ、因みに余り紐の先っちょに付いてるのはナイフ形のチャームですよ。
文字の配置は「裸のランチ」の表紙を参考にしたような気がします。
うん、これは全然うまくいってないですね。こんなん気付く人は取り返しのつかないレベルのヤク中で、家ではウィリアムテルごっこをやっているに違いないですよ。
裏はこんな感じです。雑!
えらいシンプルなんで作り方の説明もいらないくらいだと思うんですけど、作り方の手順はこんな感じです。
1、本のサイズより少し小さめに革を切る。
2、好きな位置で真っ二つにする。(スラッシュ!)
3、裂け目の両側に等間隔でハトメを打つ。
4、紐を通す。(紐の先っちょの処理はお好みで。)
5、余った皮で左右の袋を付ける。(縁に縫い目を付ける。)
6、お好みで文字などを入れる。
完成!
MS式(ミシマスラッシュ式)ブックカバーの総括として、
まず使い勝手はなかなかいいです。かさばらないし。結構しっかりと締め付けることができるから、読んでる時のブックカバーのたるみも少なく、ちゃんとフィットします。
取り付け、取り外しは、いちいち紐を緩めないといけないのでやや面倒ですが、頻繁に行う動作ではないので問題はないでしょう。
注意点としては、MS式はしっかり締め付けることができるが故に文庫本などには向かないかもしれません(試してはいませんが。)ちゃんとしたハードカバーでないとふとした瞬間に表紙を曲げてしまうような気がします。
あとは、ハトメが直接表紙に触れるので、表紙を傷つけてしまう恐れがありますね。
そんなところです!
このMS式ブックカバーはハードカバー相手に限定されてしまうものの、使い勝手も良く、簡単に作れて、(おそらく文字さえ入れなければ)どうやっても結構スタイリッシュなのができると思うのでなかなかにおすすめですよ!
秋の夜長には読書だけでなく、皮いじりなぞいかがでしょう?
今時「残酷表現」をやるのは最高にパンク くるぐる使い
前回読んだ本が暗くて長くて爽快感のない類のやつだったので(悪いとは言ってない)、次はサクッと読めて楽しいやつを、と思って積読を見渡したところ、これが一番いい塩梅だったので。
あらすじ!
こじらせ少年少女の妄想、空想に容赦ないヌンチャクを叩きこむ!オカルティック青春物語5編を収録した短編集、あるいは経典。
あらすじ終わり!
精神異常者、妄想狂、くるぐるちゃん、悪魔祓い、教祖、などなど、およそ如何わしいテーマばかりで描かれる素敵な1冊でございました。
私のお気に入りは表題作「くるぐる使い」で
ある外道が超能力少女を発狂させて見世物にした挙句、能力が使えなくなったら殺して、自分はのうのうと天寿を全うする。
という話です。 非道い!
こんな話なのに読んでみると「絆」だとか「愛」のようなものが確かに感じられて、読後感も悪くないから不思議です。細い綱の上をふらつきながらもなんとか渡っていくような、この訳の分からないバランス感覚がオーケン節だと思います。タレント本だと侮るなかれ。上手い文章、だったり、美文、とかでは全くありませんが、オーケン本には他のちゃんとした作家からは得られない謎の感覚(不快感ではない)が確かにあるんですよ。宗教の勧誘ではありませんが普段ちゃんとしたのを読んでる人ほど読むべきだと思います。
筋肉少女帯の曲と重なる部分が多々あるので、筋少のことを知っている人にとっては、曲の世界観の補完なんかにも一役買ってくれると思います。
「くるくる少女」、「パレードの日、影男を秘かに消せ」、「レティクル座妄想」の桃子曲、などが近いです。
あとは、あからさまな江戸川乱歩、夢野久作リスペクト、映画からの引用などが多々見られます。このへんもいつも通りですね。しかしネタ元が分かりやすいというのも筋少、オーケン関連のもののいいところだと思っていて、なんというか拡張性があるんですよね。「くるぐる使い」を読んだ後で、江戸川乱歩に進むきっかけになったり、「妄想癖によって視野が狭くなりがちな人」なんかを別の世界に連れ出してくれるような側面は確かにあると思います。「いじめで自殺してしまう子は学校だけが世界の全てだと思ってしまっているから云々」みたいな話はよく聞くけど、そういう子を図書館に連れ出す謎の魔力がある気がします。本の中の言葉で言えば「へらへら生きるコツを教えてくれる」という感じ。
「残酷」「不謹慎」表現について
ここでちょっと書いてみたいのが「残酷」「不謹慎」表現についてです。
っていうのも「くるぐる使い」を読んでいる間に「下ネタという概念が存在しない退屈な世界」のアニメを見たり、「食人族」のBDが残酷表現にクレームが入ったために発売中止になるだのならないだのっていうニュースを見たからなんですけど。「くるぐる使い」もそういう理由かどうかは知らないけど絶版状態で、今出版しようと思ったら一悶着ありそうな内容だしで、書きたくなったので。
下ネタや残酷、不謹慎などの「過激」とされる表現が規制(というか自粛?)されつつある昨今ですけど、それってどうなのみたいな話です。
月並みではありますが、よくないですよねー。
例えば本に関して言えば、あんなものは所詮紙とインクの染みですよ。そこにどんな思想を乗せたところで、(例えば少子化対策のためにレイプを推奨したり、障碍者を間引きする法律を作ろうと提案したり)どこにでも頭のおかしいやつっているよねーとスルーされて埋もれていくだけです。現状ではそうだと思います。
しかし、頭のおかしいやつらを規制によって徹底的に排除し、あまねくすべての表現が正しいものとなったらどうでしょうか。
なんかうまいこと規制の網をかいくぐって発表されたレイプ推奨文も正しいものとして受け入れられてしまう事態が想定できてしまうのではないでしょうか。 (勝訴!勝訴です!)
「頭のおかしいやつはいるものだ」という認識が大事で、「過激」な表現を快いと感じようが不快と感じようがそこで規制をかけるのは違うと思うのです。(というか不快だからこそ意味があるような側面がある)
パンクの時代
「過激」な表現が規制されつつある昨今だからこそ、逆に高まっているエネルギーみたいなものも実はあると思っていて、それっていうのは要は「怒り」です。
抑圧されると反発したくなるし、規制されると余計に欲しくなる。どういうわけか人間というのはそういう風にできているようなところがあります。
「下ネタという概念が存在しない退屈な世界」なんかも、昨今の自粛傾向と、それを憂う人々がいるからこそ製作され、かつ受け入れられることができたのではないでしょうか。で、「最近の自粛傾向がムカつく」って言うのは、「表現をするに至る初期衝動」をしてはすげぇ真っ当ですよね。
「音楽がつまらなくなった」とか「アニメがつまらなくなった」みたいな話はちょっと前からよく耳にする話題でありますが、仮にそういう状況が確かだとすると、原因の1つは「初期衝動不足」にあると思うのです。
「会えなくて切ない歌」だとか「明日に向かって手を伸ばす歌」だとか「もう一人じゃない歌」みたいなのは毎年500曲くらいは生産されているであろう普遍的に扱われるテーマでございますが、それゆえに誰でもそれっぽいことが言えるような内容であるのです。初期衝動なしにテキトーにそれっぽくすることを考えたらだいたいこういう感じになるのだと思います。
かつてロックは社会への不平不満、怒りの全てを音として発散する闘争の音楽でありました。しかし、時代の流れとともに人々の怒りは薄れ、ロックはなんかそれっぽいだけの商業音楽になり果てました。商業主義に屈した軟弱なロックを憂い、ロックに怒りをぶつけたのがパンクでございます。
イマドキの音楽がつまらないと感じるのならば、その憎しみこそを表現するべき時が来たのではないでしょうか。
革命前夜でございます!
今に黙示録のラッパが鳴り響き、アンダーグラウンドに押し込められた戦士たちが太陽の元に集い、パーリィ族たちを駆逐するでしょう。悪徳は栄え!日本は印度になり!狂人は解放され!影男たちは犯罪という猟奇の果てに死んでいくでしょう!
そんな時代を血のような赤で彩るために必要なものこそが「過激」「残酷」な言葉の数々でございます。「過激」「残酷」表現は忌避され抑圧されつつある手法でありながら、使いようによってはゲロを吐かせるくらいの強烈な効果を持っています。良くも悪くも心を動かすという一点に重点をおくならばこれ以上の武器はないでしょう。
では、来るべき日に備え、今の私たちにできることとは何か!
モーレツア太郎に教えを乞うことなのではないでしょうか!
後半ちょっと筆が乗りすぎました(反省)