鉛甘味料うるたこんべ

変なもの愛されないものを主とした本、映画、工作、その他の記録

不憫な松恵は救済されるべきか 鬼龍院花子の生涯

宮尾登美子さんの小説「鬼龍院花子の生涯」を読んだ後、それを原作にした五社英雄監督の映画版を観たので、それについて書きたいと思います。

 

鬼龍院花子の生涯 (文春文庫 み 2-1)  鬼龍院花子の生涯 [DVD]

 

普段だったら、「原作の方を読んだら映画版とかは見なくてもいいかなー」と思っちゃうんですけど(逆も然り)、今回は気になったので。

っていうのもですね、映画の方は夏目雅子さん演じる「松恵」の「なめたらいかんぜよ!」という名台詞がある(らしい)っていうくらいの知識はある状態で先に原作を読んだんですけど、原作の方の松恵があまりにも不憫で不憫過ぎたものですから、格好良く啖呵を切る松恵がどうにも想像できなくて(というか松恵が啖呵を切るタイミングがあったか?)その疑問解消と、あるいは「不憫な松恵」が救われる世界もあるのかもしれぬと思い、見ることにしたのです。

 

あらすじ!

時は大正ところは高知、その界隈で名をはせた侠客”鬼龍院政五郎”人呼んで「鬼政」の家に養子として貰われた松恵。鬼政の嫡子でもなければ妾でもない松恵はやくざものたちの家でどのように生きたのだろうか。

あらすじ終わり!

 

原作

まず原作なんですけれども、「高知の遊郭で芸妓紹介業を営む岸田猛吾の子として生まれる」という宮尾登美子さんの経歴に裏打ちされた(と思う)確か過ぎる描写力を存分に楽しむことのできる本でした。

なんというかですね、全ての物事についてその背景から順序だてて、筋道の通った組み立て方をされている、みたいな感じです。原作本はまず、舞台となった高知県の納屋堀あたりの土地柄、時代背景の説明から始まるんですけど、(土地柄から始まることが既にね…)海が近くにあるこの町では人々はこういう仕事で生計を立てていて、潮風が生臭く、四六時中波の音が聞こえてくる、建物はこんな風でしけの時でも大丈夫なようになっている。労働者の組合みたいなのもあって誰々が取り仕切っている。

みたいな。すごく事細かく説明してくれているのだけれど、それぞれの要素が関係し合って結果的にこういう町になっているっていうのがよくわかるようにまとめられていて、この描写力はすさまじいなと思ったのです。

冒頭の50ページくらいが特にこんな感じで、別に明るい話題は全然出てこないのに(むしろ暗いのに)「懐かしい故郷について語る友人の話」を聞くような嬉しさがありました。

原作の方はこの描写力によって繰り出されるやくざ、侠客の商売の仕組みや、対外関係、女関係、内部の人間はどういう思いで暮らしていたか、みたいなことが楽しかったです。

物語的な楽しさもあるのだけれど、本全体に漂う暗く、何かを諦めたような雰囲気とか、松恵がただただ不憫過ぎて全く報われない感じがつらかったです。

物語の王道としては最後の最後には多少なりとも救われるものだと思うのですがこの原作にはそれがないものだから、松恵だけでなく、松恵が救われることを信じて読み進めた読者さえも絶望と虚無感の中に置き去りにする結果になっていました。

私も随分と虚無っていたのですが、今になって思うと、そういう所が作家、宮尾登美子さんの表現したかったリアルなのかもしれないなと。物語とか関係なく、読者に媚びることなく不憫な人を不憫なまま描き切った結果だったのかもしれません。

 

映画版

映画の方はそういう原作の性質からはむしろ逆をいくようなところがあって、原作が結構長い作品とはいえかなり内容が端折られてるし(ただしエロシーンは除く)、鬼政は割と小物臭いところがあるし、松恵が不憫なのは変わりないのだけれど、内容が端折られている分「生涯通しての不憫」感が薄いし、なんか最後の方で鬼政が「本当は松恵のことを大事に思っちょった」みたいなことを言い出すしで、うん、けっこう違ってました。そうか、これなら「なめたらいかんぜよ!」みたいな台詞が入るのも頷ける。

まぁこういうのは先に読んだ、観た方を正統とみなしてしまうやつだと思うから、映画から先に見たら「なにこれ原作暗すぎ」とか思ったのかもしれません。

 

映画を先に見ていれば「松恵のことを大切に思っちょった」くだりはすんなりと受け入れられるのかしらん。自分としては原作の方で松恵のことを最後までないがしろにし続けた鬼政や歌さんのことを知っているから、「どの口がゆうちょるか!」とちょっと怒りが湧いてくるくらいだったけど、 物語的な構成を考えたらやっぱりこうなるのかなぁ。この映画が不憫なまま終わる映画だったら、当時もヒットすることもなく今になって私の目に触れることもなかったのかもしれないからなぁ。

 

あ、でもあれです夏目雅子さんとかエロシーンはよかったです。「吉原炎上」のエロシーンは超えませんが映画1本で何人脱がすんや、五社英雄、と感心するほどです。昭和の女優さんって結構脱いでたよなぁ。

 

 

(そういえば「鬼龍院花子の生涯」なのに「花子」のことは全く書いてないなぁ…。でも花子はなんかどうでもいいんだよなぁ。)

罪なき人を痛めつけよう 魔女の秘密展

先日こういう記事を書いたんですけど。

 

urutakonbe.hatenadiary.jp

 この時作ったブックカバーって一応、当初の予定として「魔導書」っぽいものを目指したものだったんですね。で、ですね。魔導書ってなんぞや?ってことを考えるんですけど、なんにもでないんですよねこれが。もはや「魔導書」を目指してないと言っても過言ではないというか目指してないという惨状でありましたので、これはアカンと思いまして、「魔術」についての造詣を深める必要を感じたのです。

 

というわけで

名古屋市博物館「魔女の秘密展」

に!行ってきましたー!


魔女の秘密展 開催告知「善か悪か」篇 - YouTube

「信じる」「妄信する」「裁く」「想う」の4つをキーワードとして、魔女とは誰であったのか?という疑問を歴史の変遷とともに紐解きます。

 

超常なる技術に通じ不思議を可能にする魔女を、理を解さぬ無学の民は神の領域を侵す不届きものと恐れながらもその知恵を拠り所とし、両者の間には平穏とは言わぬまでもある均衡の保たれた関係が形成されていました。しかし均衡は壊れるのです。紛争、疫病、飢饉、大禍に見舞われた民たちは全ての責任を魔女に押し付けたのです。説明のつかぬ災いは魔女の仕業、あるいは魔女の不徳に対する裁きとみなされ、クラーマー著「魔女に与える鉄槌」はベストセラーになりました。「さぁ、狩りに出掛けましょう!」キリスト教過激派の熱心な啓蒙活動により「忌むべき魔女は殺さねばならぬ」との考えを植え付けられた民は魔女狩り、異端審問に勤しむのでした。言いがかり以外の何物でもない嫌疑をかけられ、拷問された挙句焼かれるという、そんな酷い最期を迎えた人の数は一説には数百万人にも及ぶのだとか。更に時は経ち、化学の発展とともにそれまで魔術とされてきた超常は日常へと姿を変え、魔女はほとんどいなくなりました。しかし、かつて存在したとされる「魔女」なる存在は創作家たちの想像力を掻き立て、物語や芸術、民話伝承として現在まで語り継がれ、人々に親しまれているのです。

 

みたいな。

思い違いもあるかもしれないし、非常に大雑把なまとめだけれど、そういうことだと理解しました。

 

一貫して、

「特に悪いことをしたわけでもないのだけれど悪魔とファックするやばい奴らだと決めつけられて⇒虐げられることになったかわいそうな魔女たち」

のストーリーを当時の歴史的な事件や、宗教、思想の観点から分かりやすく伝えてくれる内容となっていたと思います。

最初のブロック意外は基本的に「無学の民から見た魔女」や「キリスト教過激派から見た魔女」を描いたあれこれが展示されていた(と思う)ので「魔女の秘密」展ではなくね?みたいなこともチラッと思ったけど楽しかったからいいです。

 

「楽しかった」とか言ったそばからですけどあんまり魔女の歴史は楽しいものではなかったみたいですね。魔女狩りゾーンは正直かなりエグイです。「スペインの長靴」や「棘のある椅子」をはじめとした数々の拷問器具が展示してあり横に解説が添えてありました。ああいうのってネットで画像検索するだけでもヤバさは伝わるんですけど、実物を目の前にすると想像力の上を行くヤバさを感じられてヤバいですよね。たぶん使ってみたらもっとヤバい。ある拷問器具の説明「まず歯が折れ、次に顎が砕ける」ってなんだよ…。

あの無慈悲な金属たちは一見の価値ありだと思います!

「梨」とか「車輪」とかがトラウマワードになりますよ!

 

「異端審問」の体験コーナーは少しチャチではあったけど、あの論調で拷問送りにされるっていうのはあまりに理不尽で、他称魔女の皆さまの無念は計り知れないものだったろうなぁと身を焦がされる思いでした。火あぶりだけに…。

 

と、ここまで見てきてからの「近現代のみんなに親しまれている魔女」ゾーンの「だからなんだよ」感!ですよ!

いやいや。すげぇ素敵な絵とか像とかばっかりなんだけどさぁ。この素敵な魔女たちが「あの拷問」を受けて死んでいった人たちだと思うとどうにもやりきれねぇのですよ。魔女を素敵に描いたからって「いわれなき罪によって手錠をかけられ拷問された挙句に焼かれて灰になった隣の家の奥さん」は報われねぇよ!と。どういう神経で描いてるんだろう?「デビルマン」とかの方が死んでいった魔女に対する誠実さが感じられるじゃねぇか。どうなんだろう「魔女狩り」から100年もたった後の作品たちだったんだろうか。

(歴史とか関係なく作品単体で見るとやはり素敵なんですけどね。)

 

以上!総じて素敵な企画展でございました!

人類の愚行の歴史、集団ヒステリー、人道的でない人の痛めつけ方などに興味のある方は是非!足を運んでみるといいと思います!興味がなくても「戦争を忘れてはならない式の論理」で足を運んでみるのがいいと思います!

 

決して素敵じゃない魔女たちに!会いに行きましょう!

読書家の狂気を表現する 革のブックカバー製作

読書家諸氏、お盆はどうお過ごしでしょうか。

帰省や旅行などで長い時間を移動に費やす方も多いことでしょう。

そんな時に旅のお供として重宝するのが本であることでしょう。読書家の皆さまならば長時間の移動はむしろ積読の消化に充てられる大変貴重な時間として認識している方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

そんな移動中の読書の際に問題となるのが表紙でございます。

読書家の皆さまから見れば表紙がどんなものであろうと気にすることはないのでしょうが、人の世は残酷なもので電車で「ライトノベル」を読んでいる方を「犯罪者予備軍」とみなし軽蔑の眼差しを向ける「健全な紳士・淑女」も少なくありません。この御時世、電車で「ドグラマグラ」だとか「O嬢の物語」だとか「我が闘争」だとか「アナモルフォシスの冥獣」なんかを読もうものならば即刻通報されてもおかしくはないのです。「1984年」のような社会はもうすぐそこまで来ているのです。

 

そんな社会に生まれながら、移動中に「不健全な読書」を楽しむための方法があります。

そう、ブックカバーをすればいいのです。

ただちょっと紙を折って被せるだけでこと足りるのでございます。ちょっと拘りたい方も本屋に行けば上質な紙製のもの、布製のもの、革製のもの、それぞれちゃんと用意してあり、満足のいくものが見つかるでしょう。

 

では、もっと拘りたい方は?

 

そもそも、読書家は勘違いされている部分があると思います。本屋で売られているブックカバーは「おとなしく」「落ち着いた」「知的な」イメージのものが多く見受けられますが、そうではないのです。読書家とは「脳髄からはみ出ない範囲でいかがわしい夢想をし」「行動を起こさない程度に過激で」「現実問題とは違う次元の迷宮を彷徨っている」ものなのではないでしょうか。象牙の塔の頂に立ち夜空に高笑いを響かせるような「読書家の狂気」を表現したブックカバーを探し求め、心当たりを見て回ったものですが、これが見つからない。

 

かくなる上は自分で製作するしか方法がないのでございます。

 

 

前置きが長くなりました!上記のはブックカバーの製作理由とか私の主義主張というよりも、今回のコンセプトだと思っていただければ幸いです。中二病で思い込み、思い上がりが激しそうな感じ。

そういうわけで作ったのがこちらになります!

f:id:urutakonbe:20150815133216j:plain

どうでしょう。魔導書チックなのを目指したものの素材の選定が適当だったので(十字の紐の質感が優しすぎる、縁取りが紅白でおめでたい)魔導書的にはちょっとうまくいってない感じです。どちらかというと冒険家チックかなぁ。こんなの持ってるやつみたことないとはいえ狂気もちょっと足りてない気がします。あとはそうですね、中学生がやりがちな「無計画な詰め込み」の過ちを犯してしまっているきらいはありますが、機構と形状に関しては結構気に入ってます。初めて作ったやつとしては及第点にしていいんじゃないでしょうか。ダメ?

f:id:urutakonbe:20150815133247j:plain

上の写真左側の金具で、紐の長さを調節することで右側縦の紐が繋がっている耳の部分が移動できるので、いろんな厚さの本に対応できるようにしました。

あと吊るしたりできます。素敵!

f:id:urutakonbe:20150815133427j:plain

中はこんな感じ。(さしあたりラブクラフトさんを入れてあります。)長い紐が読むときに邪魔になりそうです。

f:id:urutakonbe:20150815133412j:plain

 

作り方を簡単に書いておきましょう。

 

材料、必要量、購入場所  

・牛皮 文庫本カバーサイズ 東急ハンズ

・革紐 6m程度 100均

・布紐 1m程度 100均

・鋲 15個 手芸屋さん

・輪っか 1個 手芸屋さん

・角かん 2個 手芸屋さん

東急ハンズが便利だけどたぶん拘らなければ牛皮以外は全部100均でそろうかも。

※鋲を打つのと、革に紐を通す穴をあけるのに専用の工具が必要。

 

1.本のサイズ+カバーの折り代+耳 の大きさに革を切ります。

 (耳は折り代部分に30㎜くらいの高さでつける)

2.縁をかがると同時に下写真右側の表紙を滑り込ませる部分を縫い付ける。

 (自分のは右側と耳の部分だけシングルスナッチでかがりました。左側はかさばって

  はいけない部分なので単純に巻いただけ)

f:id:urutakonbe:20150815133420j:plain

3.各紐を適当な長さに切り、鋲で取り付ける。

(これは実際に本を入れてみながらゆっくり調整するのがいいと思います。取り返し 

 のつかない作業も多いので。鋲の配置なんかにセンスが出ると思います。自分のは…

 うん)

f:id:urutakonbe:20150815133318j:plain

 

非常にざっくり書くとこれだけなんですが、いろんな調整があるので初めて作ろうと思うと結構時間がかかると思います。

鋲なんかは種類もいろいろあるし、かがり方もいろいろあるみたいだし、革は焼き印で文字とか絵が打てたりするみたいだから、まだまだいろいろできそうな感じです。(文字とか書きたい場合はもっと明るい色の革を選んだ方がいいのかしら。)

 

不健全な読書のお供に不健全なブックカバーはいかがか?

群衆を殺してやりたい 群衆リドル

久々に古野まほろ成分を摂取したく、「群衆リドル」なる本を手に取った次第です。

群衆リドル Yの悲劇’93

あらすじ!

フツーの元女子高生渡辺夕佳の元に突如届けられたなんかすげぇ館への招待状。せっかくなので恋人の同伴の元ご招待に与ることにしたものの、行ってみた先で出会ったのは同様に招待された如何わしい人々。橋は落ちるし、外は猛吹雪。こんな状況だから当然電話線だって切られるし、当たり前のように殺人だって起こるのであった。

あらすじ終わり!

 

正直なところ自分の思う所による「古野まほろ成分」がかなり薄めで、最初の期待に沿うものではなかったです。「天帝シリーズ」が好きで、その延長として本書にたどり着いたので。自分としてはもっと、無駄知識や作者の趣味僥倖を偏執的かつ衒学主義的にひけらかしたメガ盛り超絶技巧練習曲1番みたいなやつを渇望していたので「群衆リドル」はちょっと違ったのです。だって古野まほろ小説から無駄をそぎ落としたら普通のラノベになっちゃうじゃないですか!

読みやすいといえば、そうなのかもしれないのですが、私は読みやすさは求めてないので。「天帝シリーズ」が非常に曲者で賛否両論(否が多め)あるシリーズなので(各種レビューサイト参照)、「天帝みたいなのを!」という人には薄味に感じてしまうかもしれませんが、「初めての古野まほろ!」という人には楽しめるやつなのかもしれません。

(初心者も最初から天帝シリーズを読めばいいと思うけどね。で、半分くらいの人は壁に投げて壁に穴が空けばいい。)

 

「群衆リドル」の話をしましょう。遠回しなネタバレを含みます。

 

変な本を読んでる人はだいたいそう思ってるはずなんですけど、「群衆」ってやつは憎くてしょうがないクソの塊みたいな存在なんですよね。

「群衆」って要は個人の集合であるはずなのに各個人が望んでいるとは思えない方向に動き出したり、逆に全く動かなかったりと、意図が全く読めなくて正しいとも思えない決断を下し、かつその決断をものすごい力で固持する迷惑極まりない奴らなんです。

その理屈というのも「普通こうだから」「みんなそう言ってるから」など、およそ自由意志のある生物の発言とは思えないものだったり、意見を変えない理由も「多数決で勝ってるから」というだけだったりと下劣極まりないものばかりなんです。しかも、「群衆」は大きい流れに乗っかっただけであり、特定の個人がその中心にいたというのでなければ、間違いがあったところで責任がどこにもないという性質を持っています。

「論理も主義も主張もない癖に権力だけ持っている集団であり、自分たちの下した決断に対し責任は取らない」というのが私の中の「群衆」のイメージ。「変な本」を嗜み、普段から多数派には属さないような人たちには分かってもらえるのではないでしょうか。あるいはそうでもないのでしょうか。

 

本書は群衆に対しての復讐の物語です。

ただし、「本書の中の群衆」と上記の「私の中の群衆のイメージ」は被るところはあれど、結構異なるのであしからず。(そこら辺は私怨の問題です。)

 

しかし、群衆に対しての復讐がその群衆の中の5、6人を殺すだけっていうのは、それはなんて悲しい復讐なんでしょう。そんなもの群衆にとっては痛くも痒くもないじゃないですか。今回の犯人は夕佳の存在に救われてたかもしれないけれど、下手したら全人類に向いてもおかしくない憎しみをぶつける相手が、これだけで足りるはずはないんですよ。当事者であったはずの相手がもっとたくさんいるはずなのに、責任のある人間はいないも同然っていうのはなんてもどかしいんでしょう。一体この絶望はどうしたらいいのかわかりません。

 

自分はそんな群衆にならないように気を付けつつ、

どうにかして群衆を殺してやりたい。

 

巻頭歌「群衆」


Edith Piaf - La foule - YouTube

私は幸せかもしれない O嬢の物語

 マゾとは如何なるものかを世界に知らしめた一冊として有名な「O嬢の物語」を読みました。

偏見かもしれないけれど、特殊性愛とかに関して突き抜けたところまで踏み込んでる書物って作者がだいたいフランス人なイメージがある。「O嬢の物語」も然り。サド侯爵然り。貴族制度により働かなくても生きていける人たちが快楽の極みを求めた結果なのか(O嬢は貴族の時代の小説ではないけど)元々そういう土壌があるのか、遺伝的なあれなのかはわからないけれど、フランス人って偉大だわ。

 

O嬢の物語 (河出文庫)

あらすじ!

ある日恋人により謎の館に連れてこられた”O”はそこで腕輪や首輪により拘束され、鞭打たれ、不特定多数の男たちから凌辱される日々を送ることになる。しかし、彼女は本当に不幸だったのだろうか?

あらすじ終わり!

 

そういうことだったのか、マゾヒズム

自分はそっち側ではないようなので、共感は出来ないまでもわからんではないという感じでした。「家畜人ヤプー」よりもマゾヒズム研究には役立ちそうです。

 

つってここで「マゾっていうのは自分が恋人の所有物であることによって愛を感じるんやでー。」みたいなことを語ってもなんか本の内容ともずれる気がするし、感覚的なことだから説明的な文章では結局伝わらない気がするので、その辺は割愛します。

(自分がそっち側ではないようなのでちゃんと理解できているかどうかも怪しいところですし。)

物語に乗せることによって、感覚的なことが感覚的に伝わるっていうのが小説って形式のいいところだと思うので、マゾヒズムの神秘に近づきたい人は「O嬢の物語」を手に取ってみるのがいいと思います。

 

なのでここからは私の理解の及ぶ範囲で「奴隷状態における幸福」について書こうかと思います。この話はマゾヒズムからはちょっと離れてしまうんだけどご了承ください。っていうのもちょっと汎用的になりすぎて性的要素からはなれてしまう所があると思うので。

 

例えば、

真っ白い紙を渡されて「何かかけ。」と言われたときに、実際に何かを書き始めるのってえらい難しいと思うんですよ。鉛筆を使えばいいのか絵具を使えばいいのか絵を描けばいいのか字を書けばいいのか。絵だとすれば何を?字だとしても何を?難しい上に正解がない、雲に飛び乗ろうとするような、砂漠に一人取り残されたような不安感が自由にはあるんだと思います。

紙に書くのが今年の目標だとか、キリンの絵だったらこんな楽な話はありません。

なんでもできるはずなのに何もできないという漠然とした不安から救われるために人々は拘束されることを選ぶのだと思います。

拘束されるっていうのは、閉じ込められるとか、繋がれるとか、そんな大げさなものではなくて、休日に必死で予定を詰め込むとか誰か一人の伴侶になるとかそんなレベルの話です。勿論拘束されることを選ぶのも自由です。

 

毎日毎日「忙しい忙しい」と譫言のように連呼してる人っているじゃないですか。その実わざわざ用事だのなんだのを詰め込んで忙しくしてんのは全部自分だったりして。好きでやってんだったら文句垂れてんじゃねぇよ。しねよ。

っていうふうに思ったことって当事者以外の誰にでもあると思うんですけど、あれも「奴隷状態の幸福」の一種だったのかなって今になって思います。

あの人たちは自由になるのが嫌で嫌でしょうがなくて来る日も来る日も自分に自由など与えぬようギチギチと予定を詰め続け、自分を縛り付けることによって快感を感じていた変態さんの鏡だったのだなぁと。

 

とはいえですね。あの人たちって「奴隷状態の幸福」を享受していながらきっと幸せではないんですよ。周りから見れば明らかに好きでやってるのがまるわかりなのに本人たちは割と真面目に苦しんでたりするのが脳髄のマジック、人体の摩訶不思議。

 

あれって本当の自分の感性が分かってないから起こる悲喜劇だと思うんです。要はですね、まさか自分が変態さんの鏡だなんて全く思ってないから自分は不幸だと勘違いをしているんですね。確かに、「あなたは先天性の奴隷ですよ」と言われてそれをすっと認めることができる人などいましょうか?

 

常識に照らして考えるに、「自由とは素晴らしいもの」であり「隷属されることは辛く悲しいこと」であるのですから。自由など全く手にしていない自分はかわいそうでみじめな生き物でしかなく、幸福など一切感じることはないのでございます。

 

っていう勘違いをしているんですね。そんなわけないのに。常識は自分のために作られたものではないのですから完全に自分に当てはまるわけがない。

常識から解き放たれー!自分の感性に正直に向かい合ったときー!何一つ自由のないあなたはー!真に!幸福であるのかもしれない!

 

その可能性を見出すことができる一冊こそが!「O嬢の物語」であるのです。

 

この物語の中では「私はあなたのものだわ」「君は僕のものである前にステファン卿のものだ」「あなたは誰のものなの」といった狂気の日常が描かれますが、日常化した狂気は最早狂気ではなく、あたりまえのこととして脳に刷り込まれます。その結果、苦痛の中に快楽を見出すという狂気を常識のレベルにまで貶めることができるのです。

 

常識に則ってしかものを考えることのできない不幸な喜劇人たちにとってこれほどの救済がありましょうか?彼らは隷属されることがどれだけ幸福であるか=自分はどれだけ幸福であるかを「O嬢」から学ぶことができるでしょう。フランス人って偉大だわ。

 

ではでは、ここらで終わろうと思います。

お幸せに!

一人で強くなるということ バケモノの子

普段あんまり流行りものみたいな映画を映画館で見ることはないのだけれど、誘われたんで公開初日に見に行ってきました。こんなの初めて。

以下の文章は一応、ネタバレ、批判、独自の解釈注意です。

 


「バケモノの子」予告 - YouTube

あらすじ!

なんやかんやあってバケモノの世界に迷い込み、バケモノの世界で”九太”と名付けられた少年は師匠?熊徹をはじめとする様々な人(バケモノ)と出会い、関わり合いながら成長したり葛藤したりするのでありました。そして九太の成長は九太だけのものってわけでもないのでした。

あらすじ終わり!

 

んー。

千と千尋~」的、不思議世界奮闘物語かと思ったら、子供と親(師匠)の成長を見守るハートウォーミングストーリーになり、「おおかみこども~」の序盤に見たような恋の予感を感じさせつつ、熱い戦いを繰り広げた上で、「おおかみこども~」の終盤で見たような葛藤を描いた映画!

という感じでした。

 

場面毎で急に物語の方向性がガラッと変わる所が幾つもあって、「あれ、そういう話だっけ?」みたいな疑問を随所で抱かせつつなんやかんや最後はうまく纏まってました。

とはいえ、どっかで見たような絵面が多くて「これはここから引っ張ってきたのかなー?でもあっちの方が出来がいいよなー。」みたいなことを考えてしまってあんまり物語に入れなかったです。

例えば、九太の名前を付けるまでのシーンは割と明確に「千と千尋」を意識してると思うんだけれど、両親が豚にされて意味不明な神々が跋扈する「千と千尋」の異世界に比べて、「バケモノの子」の異世界ではすぐにやさしい坊主と出会えて割と誰でも想像するようなバケモノが蔓延るなど、要は最初から優しすぎるんじゃないかと。

あと、猪王山と熊徹、九太と一郎彦、みたいな対比の構図がえらいあからさま過ぎて「教科書通りにやりました」感が拭い去れなかったりと、製作者の「お前らこういうので感動するんだろ」的思惑がチラついてしまってもうちょっと乗り切れなかったです。(被害妄想かもしれませんが)

 

文句を言いつつもこの映画で考えてみたいテーマの一つや二つはあるものです。

メルヴィル「白鯨」と「バケモノの子」

一人で強くなった熊徹

 

がそれです。(父性とかは好みじゃないし、アイデンティティの危機の話は「おおかみこども」で見たしなぁ。)

とはいえ、メルヴィルの「白鯨」は読んだことないし、手元にないし、映画見て初めて知ったし、なので追い追い読む機会があった時に「バケモノの子」と絡めて語るか絡めるほどのこともないか判断するとします。

 

なので、

「一人で強くなった熊徹」

についてちょっと書きたいと思います。

(ただしほとんど私の妄想ですが。)

「一人で強くなった熊徹」というテーマは「何故、熊徹は宗師になりたいのか?」っていう所に大きくかかわってきます(自分的に)。たしかそのあたりの事情については物語中では語られてなかったと思うのだけど、だって宗師って「バケモノの国の長」みたいな存在じゃないですか。弟子一人を育てるのもめんどくさがっていた熊徹がそんなめんどくさそうなものになろうとしているっていうのは結構な不思議ポイントだと思うんです。

 

次期宗師の候補は2人。

片や猪王山。

誰よりも強く、公明正大、時に優しく時に厳しく、弟子に対して分かりやすく丁寧な指導を行う。ルックスもイケメンだ。

に対して、熊徹。

確かに強いが乱暴で自堕落、弟子への指導は意味不明で適当、いい年してバイトで食いつないでる。ルックスも頭悪そうだ。

 

熊徹って、一般的にいう所の「いいところ」がないんですよね。いいところがないから一般バケモノたちも基本的に猪王山が宗師になることを望んでいるみたいだし、私も別に熊徹は宗師にならんでもいいんじゃないかと思う。

頑張って宗師になったところで他人はおろか自分さえもあんまり幸せになれないことくらい熊徹でもわからんはずはないんです。わかっていながらも熊徹には猪王山を打倒して宗師にならなければならない”必然”があったはずなんです。

 

熊徹って、実は結構真面目な奴だと思うの。

何も考えてないのにたまたま強く産まれてしまったチンピラでは決してない(それが分かるシーンもあったね)。

熊徹には熊徹のメソッドがあって(というかメソッドから自分で作り上げて)、ちゃんとうまくいくやり方を研究して、考え抜いた結果として強くなったんだと思うんです。生活がどんなにだらしなくてもトレーニングだけは決して欠かさないしね。

これに対して、猪王山の強さは(たぶん)良き師匠に恵まれ、メソッドに従い技を引き継ぎ、それを磨いて得たものだと思う。

猪王山も真面目に努力して強くなったことは確かなのだけれど、熊徹も同等かそれ以上の努力をして強くなったはずなんです。

 

道は違えど同じように努力して強くなった二人なのに、猪王山は全てのバケモノから称賛され、尊敬されている。熊徹はほとんど誰からも相手にされず、称賛されることなどない。

 

そんなの許せるか?

否(ニェット)!

絶対に許すわけがない!

 

そこで熊徹は考える!

誰も文句を言うことのできない絶対的な栄光を勝ち取り、世界を振り向かせるために!一体どうすればいいのか?!

渋天街を二分するほどの力をたった一人で手に入れてしまって尚、誰からも相手にされない熊徹に!残された方法はもう一つしかないじゃないか!

そう!

最後に残されたたった一つの方法こそが、猪王山を打倒し!宗師の座に就くこと!なのである!

 

 

ということを考えたのですが、どうでしょうか。(けっこうズレた見方をしてしまっている自覚はあります。)

正直「バケモノの子」という映画を1回見ただけで書いているので、本編中に上に書いたことを全否定する描写がある可能性もありますが、妄想は自由だと思うので。

上に書いたような話を好むような人だから「バケモノの子」という映画にあまりハマれなかったんだなぁと、思いました。

文学で発電は可能か 青い脂

ウラジーミル・ソローキンの「青い脂」を読みました!

自分的に、古典が偉大過ぎる文学界隈で現在進行形な作家はピンチョン、ソローキンあたりっていう偏見があって、「読書とかけっこうする方」とか言っちゃう身としては読んどかないとと思っていたのです!

本屋で実際に手に取ってみると帯の煽り文からして素敵すぎて凄く素敵です!

青い脂

あらすじ!(帯に書いてあるやつ)

2068年、雪に埋もれた東シベリアの遺伝子研究所。トルストイ4号、ドストエフスキー2号、ナボコフ7号など、7体の文学クローンが作品を執筆したのち体内に蓄積される不思議な物質「青脂」。母なるロシアの大地と交合する謎の教団がタイムマシンでこの物質を送りこんだのは、スターリンヒトラーがヨーロッパを二分する1954年のモスクワだった。スターリン、フルシチョフ、ベリヤ、アフマートワ、マンデリシュターム、ブロツキー、ヒトラー、ヘス、ゲーリングリーフェンシュタール…。20世紀の巨頭たちが「青脂」をめぐって繰りひろげる大争奪戦。マルチセックス、拷問、ドラッグ、正体不明な造語が詰めこまれた奇想天外な物語は、やがてオーバーザルツベルクのヒトラーの牙城で究極の大団円を迎えることとなる。

あらすじ終わり!

 

 訳が分からないけど素敵な単語がこんなにもちりばめられた帯!

無学なもので文学クローンの中で読んだことがあるのはナボコフだけだし、それ以外の人も、顔が思い出せるのはヒトラースターリンぐらい、名前ぐらいは知ってるのがフルシチョフぐらいという体たらくでございまして、そんな私にこんな本がまともに読みこなせるはずもないのでした。

 

この本は大きく分けて3部構成になっていて、それぞれ、クソ科学者パート、変態奇人パート、世界史同人パートって感じです。さらにそれぞれのパート内で文学クローンの作品をはじめとする謎の 短編が挿入されるというごちゃごちゃ構造になっておりよくわからない。いや、大筋は一応分かるのだけれど、その他の雑多な部分に吐き捨てられた隠喩的なところとかを読み取る、ないしは妄想するくらいのことができたらもっとずっと楽しいんだろうなとは思った。

史実に基づいた人間関係みたいなのを把握できたらまた読みたい。

 

とはいえ、無学でもググり癖があれば結構楽しめるんじゃなかろうか。

wikipadiaとかで調べると情報が多すぎて結局分からないことが多いのだけれど、 エジョフ、ラブレンチー・ベリヤあたりはアンサイクロペディアがやたら充実していて、やばいやつらだということが分かりやすかったです。そこを踏まえると、やっぱり読み方も変わってくるっていうのを自分でも感じました。

 

あとは、アフマートワとかリーフェンシュタールあたりは、なにやらソローキンさんからの評価が高そうな気がしたので機会があれば作品に触れてみたいなと思ったり。実在した登場人物がものすごく多いから文学とか世界史のカタログみたいな使い方もできるかと。

 

とまぁ、

以上がこの本の装飾部分になるのかなと思います。装飾部分が楽しすぎて頭の中がカッテージチーズみたいになっちゃうんだけれど、この本の主題=タイトルは「青い脂」なわけで、そのあたりのことも一応考えておかないとまずいかなって。

本文に出てくる説明では。

 

青い脂は超絶縁体である。

超絶縁体とはエントロピーが常にゼロに等しい物質である。

その温度は常に不変であり、供与体の体温に等しい。

(供与体とは文学クローンのこと)

 

とのこと。要は超すげぇ物質だ。

熱力学の問題は解けなくなって久しいのであんまり確証はないけれど、

カルノーサイクルとかを実現できる理想的な熱交換器の材料になったり、

シベリアの永久凍土でも人肌ぬくぬくの超断熱コートの材料になったり、

するんじゃねぇの?

 

そんなすげぇ物質をみんなが欲しがるのは当然として、それと文学と何の関係があるっていうのか。

エネルギー問題をトップディテクトに解決する超物質が、何故、科学の英知でもなく、自然現象の奇跡でもない。奇人の脳髄から垂れ流された妄想の副産物として生成されるのか。(それすらも文学クローンという形で工業化されようとしているのだから恐ろしいのだけれど)

 

なんなんでしょうね。ソローキンさんは文学の中に不変のエネルギーでも見たんですかね。

 

芸術の中で古典と呼ばれるものっていうのは現在でも変わらず、当時リアルタイムでそれを体験するのと同じ感動や熱狂を提供してくれるものであります。人々を魅了し続けたまま100年残った物はそりゃあ、あと100年経っても残ってるだろうし、人間が存在する限りは存在し続けるんじゃねぇかな。そういうのが物質として固着されたのが青脂なんじゃねぇの。じゃあ、音楽でも絵画でもすげぇ芸術家の体内には青く光る中性脂肪が蓄積してんじゃねぇの。

みたいなことも考えたのだけれど。

たぶん否(ニェット)だ。

 

絵画はきっと人間が存在している間に風化して見る影もなくなってしまうし、音楽は脈々と演奏され続けていると思いきや、作曲者の意図したものがそのまま伝わっているかっていうと微妙だ。結構時代によって曲の解釈とかも変わってくるし、流行りみたいなのもあるから。

(その辺の事情を、未来のボリショイ劇場くそみそエフゲニーオネーギンのシーンで匂わせてる気もした。曲は古き良きチャイコフスキーなのにやってることはくそみそだな、っていう。)

 

その辺まで踏まえると、作者の意図したものが何年たってもそのまま受け手に届く芸術っていうのは、文学くらいなのかもしれない。

 

 文学ってすごい!

 

みたいなことかしら。(なんかえらい軽くなってしまったけど・・)

 

 

書いててこれを思い出した。

筋肉少女帯「ヘドバン発電所


ヘドバン発電所 - YouTube

瓦礫の地 闇の中で本を読む少女に たった一つの電球をともすため ヘッドバンギングは遂に 発電に利用された!

 

文学や音楽がトップディレクトにエネルギー問題を可決する日は刻一刻と近づいているのかもしれません。