鉛甘味料うるたこんべ

変なもの愛されないものを主とした本、映画、工作、その他の記録

今時「残酷表現」をやるのは最高にパンク くるぐる使い

前回読んだ本が暗くて長くて爽快感のない類のやつだったので(悪いとは言ってない)、次はサクッと読めて楽しいやつを、と思って積読を見渡したところ、これが一番いい塩梅だったので。

くるぐる使い

 

あらすじ!

こじらせ少年少女の妄想、空想に容赦ないヌンチャクを叩きこむ!オカルティック青春物語5編を収録した短編集、あるいは経典。

あらすじ終わり!

 

 精神異常者、妄想狂、くるぐるちゃん、悪魔祓い、教祖、などなど、およそ如何わしいテーマばかりで描かれる素敵な1冊でございました。

私のお気に入りは表題作「くるぐる使い」で

ある外道が超能力少女を発狂させて見世物にした挙句、能力が使えなくなったら殺して、自分はのうのうと天寿を全うする。

という話です。 非道い!

こんな話なのに読んでみると「絆」だとか「愛」のようなものが確かに感じられて、読後感も悪くないから不思議です。細い綱の上をふらつきながらもなんとか渡っていくような、この訳の分からないバランス感覚がオーケン節だと思います。タレント本だと侮るなかれ。上手い文章、だったり、美文、とかでは全くありませんが、オーケン本には他のちゃんとした作家からは得られない謎の感覚(不快感ではない)が確かにあるんですよ。宗教の勧誘ではありませんが普段ちゃんとしたのを読んでる人ほど読むべきだと思います。

 

筋肉少女帯の曲と重なる部分が多々あるので、筋少のことを知っている人にとっては、曲の世界観の補完なんかにも一役買ってくれると思います。

「くるくる少女」、「パレードの日、影男を秘かに消せ」、「レティクル座妄想」の桃子曲、などが近いです。

 

あとは、あからさまな江戸川乱歩夢野久作リスペクト、映画からの引用などが多々見られます。このへんもいつも通りですね。しかしネタ元が分かりやすいというのも筋少オーケン関連のもののいいところだと思っていて、なんというか拡張性があるんですよね。「くるぐる使い」を読んだ後で、江戸川乱歩に進むきっかけになったり、「妄想癖によって視野が狭くなりがちな人」なんかを別の世界に連れ出してくれるような側面は確かにあると思います。「いじめで自殺してしまう子は学校だけが世界の全てだと思ってしまっているから云々」みたいな話はよく聞くけど、そういう子を図書館に連れ出す謎の魔力がある気がします。本の中の言葉で言えば「へらへら生きるコツを教えてくれる」という感じ。

 

「残酷」「不謹慎」表現について 

 ここでちょっと書いてみたいのが「残酷」「不謹慎」表現についてです。

っていうのも「くるぐる使い」を読んでいる間に「下ネタという概念が存在しない退屈な世界」のアニメを見たり、「食人族」のBDが残酷表現にクレームが入ったために発売中止になるだのならないだのっていうニュースを見たからなんですけど。「くるぐる使い」もそういう理由かどうかは知らないけど絶版状態で、今出版しようと思ったら一悶着ありそうな内容だしで、書きたくなったので。

 

 下ネタや残酷、不謹慎などの「過激」とされる表現が規制(というか自粛?)されつつある昨今ですけど、それってどうなのみたいな話です。

月並みではありますが、よくないですよねー。

例えば本に関して言えば、あんなものは所詮紙とインクの染みですよ。そこにどんな思想を乗せたところで、(例えば少子化対策のためにレイプを推奨したり、障碍者を間引きする法律を作ろうと提案したり)どこにでも頭のおかしいやつっているよねーとスルーされて埋もれていくだけです。現状ではそうだと思います。

しかし、頭のおかしいやつらを規制によって徹底的に排除し、あまねくすべての表現が正しいものとなったらどうでしょうか。

なんかうまいこと規制の網をかいくぐって発表されたレイプ推奨文も正しいものとして受け入れられてしまう事態が想定できてしまうのではないでしょうか。 (勝訴!勝訴です!)

 

「頭のおかしいやつはいるものだ」という認識が大事で、「過激」な表現を快いと感じようが不快と感じようがそこで規制をかけるのは違うと思うのです。(というか不快だからこそ意味があるような側面がある)

 

 パンクの時代

「過激」な表現が規制されつつある昨今だからこそ、逆に高まっているエネルギーみたいなものも実はあると思っていて、それっていうのは要は「怒り」です。

抑圧されると反発したくなるし、規制されると余計に欲しくなる。どういうわけか人間というのはそういう風にできているようなところがあります。

下ネタという概念が存在しない退屈な世界」なんかも、昨今の自粛傾向と、それを憂う人々がいるからこそ製作され、かつ受け入れられることができたのではないでしょうか。で、「最近の自粛傾向がムカつく」って言うのは、「表現をするに至る初期衝動」をしてはすげぇ真っ当ですよね。

 

「音楽がつまらなくなった」とか「アニメがつまらなくなった」みたいな話はちょっと前からよく耳にする話題でありますが、仮にそういう状況が確かだとすると、原因の1つは「初期衝動不足」にあると思うのです。

「会えなくて切ない歌」だとか「明日に向かって手を伸ばす歌」だとか「もう一人じゃない歌」みたいなのは毎年500曲くらいは生産されているであろう普遍的に扱われるテーマでございますが、それゆえに誰でもそれっぽいことが言えるような内容であるのです。初期衝動なしにテキトーにそれっぽくすることを考えたらだいたいこういう感じになるのだと思います。

 

かつてロックは社会への不平不満、怒りの全てを音として発散する闘争の音楽でありました。しかし、時代の流れとともに人々の怒りは薄れ、ロックはなんかそれっぽいだけの商業音楽になり果てました。商業主義に屈した軟弱なロックを憂い、ロックに怒りをぶつけたのがパンクでございます。

イマドキの音楽がつまらないと感じるのならば、その憎しみこそを表現するべき時が来たのではないでしょうか。

 

革命前夜でございます!

今に黙示録のラッパが鳴り響き、アンダーグラウンドに押し込められた戦士たちが太陽の元に集い、パーリィ族たちを駆逐するでしょう。悪徳は栄え!日本は印度になり!狂人は解放され!影男たちは犯罪という猟奇の果てに死んでいくでしょう!

 

そんな時代を血のような赤で彩るために必要なものこそが「過激」「残酷」な言葉の数々でございます。「過激」「残酷」表現は忌避され抑圧されつつある手法でありながら、使いようによってはゲロを吐かせるくらいの強烈な効果を持っています。良くも悪くも心を動かすという一点に重点をおくならばこれ以上の武器はないでしょう。

 

では、来るべき日に備え、今の私たちにできることとは何か!

モーレツア太郎に教えを乞うことなのではないでしょうか!

 


モーレツア太郎/筋肉少女帯 - YouTube

 

 

後半ちょっと筆が乗りすぎました(反省)