変態文学で紐解く 「堕落論」 あなたは美しい
えー、「堕落論」に先立ちまして、ひとまずフランス文学の話をしましょう。
っていうのも、「堕落論」もそうなのだけれど、安吾さんは考え方が非常に独特で、どういう過程を経ればそこに至るのか謎。みたいなところがあるんですけど、”フランス文学を学んだ”経歴があるそうなので、(ソースはwikipediaの”フランス文学を学んだ”という一文だけなので、ほとんど私の妄想ですが)そこから堕落の思考を紐解いてみたいなーと思ったのです。
私ね、「変態文学」はちゃんと集めようと思いながら日々の読書に勤しんだり、本屋を回ったり、ネットサーフィンしてるんですよ。
で、古今東西の変態文学を漁り、結構増えてきたなーと思って、ある日並べてみた時に気付いたんですけど、どういうわけか並外れた変態文学はかなりの割合でフランス人の手によって生み出されているっぽいんです。ラブレーとかサドとかジュネとかマンディアルグとかバタイユとか、これでもまだごく一部だと思うんだけどそうそうたる顔ぶれです。(ただし、私が無意識にフランス人から選んだ可能性もあるし、澁澤龍彦あたりのおかげでエキセントリックなフランス文学に触れることが容易な日本になっただけって可能性もあるのだけれど、まぁ、そうなのです。)
当然集めるだけじゃなく読みもするのだけれど、常軌を逸した変態文学にある程度親しんでくると、どういうわけか変態文学の中に一般文学では得られないある種の「感動」を見つけることができるんです。
でも、変態文学の中で描かれる情景で感動的なことなんて一つもないのです。そりゃあうんこ食べる話に感動するわけがなくて、なんだかんだ言って私だって何らかの「美しさ」みたいなのに感動するんじゃないでしょうか。
そう、変態文学には謎の美しさがあるのです。
執拗に繰り返されるうんこを食べる話の中に謎の輝きを見つけることができるのです。
自分の中で起こっている感情なのに、この感覚っていうのは説明のつかない部分があったのだけれど、思うに、「堕落論」に書かれている意味での「美しさ」だとか「文学のあり方」を感じる時の感覚に近いのではなかろうかと思ったのです。
安吾さん曰く
生きよ堕ちよ、
道徳も倫理も政治も人を幸せにしないし、「わび」も「さび」もよくわからないし、世間は「それっぽい」ってだけの理屈でホンモノか否かを断じ、嘘で塗り固められたニセモノをもてはやしているものである。
自分が何かを「正しい」と判断するとき、それは本当に自分の判断だろうか?
「道徳」という根拠のない正道が、「倫理」という訳の分からない規範が、「世間」という誰でもない誰かが、下した判断を自分のものと勘違いしてはいないだろうか?
人が大人になる過程の中で「自分の感性」が「道徳」だとかの訳の分からない判断基準に騙されて、本当の願望とは全く逆の行動を取らされているとしたら、こんなに苦しいことはないではないか。
直ちに堕落してやり直すべきだ。
「道」を踏み外し、「理」に尽きず、「世間」に背を向けてみて初めて、何物にも左右されない「自分の感性」でものを感じることができるのである。
清貧は欺瞞であり、贅沢は素敵だ!
はい!
で、フランス文学の話に戻りましょう。
とりわけ変態文学っていうのは、堕落しきった地獄のどん底で紡ぎだされた、外道、理不尽、反社会に満ちた現代まで続く呪いみたいなもんです。サドなんか貴族の産まれでありながらバスティーユに収監され、獄中でこそこそと文章書いてた人なわけで、サドが残した文章っていうのはそんな過程で成り立ってるわけです。さらにあの内容なわけですから、そこには嘘も、見栄も、建前も、恥も、外聞も、守るべきものなんてありえない。
そのクラスの変態文学というのはまず間違いなく、類まれな堕落者たちの「むき出しの感性」なのです。
「むき出しの感性」が時代も距離も飛び越えてしっかりと伝わったからこそ、本来美しさなんかとは無縁のはずのうんこを食べる話に私は「己を偽らない真実の美しさ」を見たのかもしれません。
しかしながら、捕捉が必要かと思います。
堕落しろっていっても、正しく堕落しろっていうのが結構重要なのです。
堕落三昧で本能むき出しやりたい放題の淫蕩生活でみんなハッピー、って話ではないのです。その辺のニュアンスが難しいのだけど、断じて違う。畜生道に落ちろって話ではないのです。
その証拠になるか分からないけど、「堕落論」を実際に読んでみるとたびたび思うことがありまして、社会通念と真逆の思想を展開したり大御所の作家先生を批判したりしてばっかりいる安吾さんですけど、この人ってたぶん誰よりも優しいんです。優しくなかったら「生きよ」とは言わない。
フランス文学で言っても、堕ちるところまで堕ちきっているように思えるサドだって変態プレイはしたかもしれないけど殺人はしなかったそうです。(優しかったかどうかは知りませんが、この人は変態性を人ではなく紙にぶつけてたんですかね。)
で、考えたんですけど、「正しく堕落しろ」っていうのは、堕落し、堕落によって露わになったむき出しの自分としっかり向き合い、自分や他人が変態であることを肯定することができる懐の深さ持てってことな気がします。(「変態」の部分はいろんな言葉に置き換え可能です。「性悪」とか「節操無し」とか「甲斐性無し」とか「小悪党」とか)
「世間」曰く、変態とは悪であり、存在自体が罪である。
で、自分もそう思い込んでいるならば、自分の中に変態性を見つけたときにつらくなる、他人の変態性を許せなくてイライラするって訳です。ギャップの苦悩です。
だとしたら、自分の変態性を感性の一部として認め、仲良くやっていくことができたなら、そんな苦悩はさっぱりなくなるんじゃないでしょうか。他人に対しても、分かったような顔した道徳の人なんかより、真に優しくなれるんじゃないでしょうか。
なんというか逆説的性善説?違うか。
えー。
堕ちて、
どんなにみっともなかろうと、
生きて、
醜態を晒し続ける人は、
実は真に美しく、優しいのかもしれません。
ED 中森明菜 DESIRE
(真っ逆さまに堕ちて desire)
メイドカフェ”Lost Kingdom”で私がドクターマンハッタンになるまでの話
先日初めてメイドカフェなるものへ行ってきたのでその感想でも書くよー。いえー。
久しぶりに日記を書いたらオープニングまでが長い映画みたいな形式になりました。ご容赦を。
では。
なんやかんやあって一人で東京で1日遊ぶことになった私は大した下調べもしないまま、「秋葉原とか行けばなんかあるんじゃね」くらいの気持ちで秋葉原へ繰り出したのである。
荷物をロッカーに預け、財布と携帯だけ持って、いざアキバ!
アニメキャラたちの見下ろす通りを一人ふらふらと歩く。一通り回ってみて気付く。あれ、意外とやることねぇな。
私ゆうてアニオタじゃねぇし、パソコンとかそういう電気のオタでもねぇじゃないか、私は秋葉原に何をしに来たのか、私の東京での休日は何の目的もないままただ歩いて終わるのか!と絶望が垂れこめる。
進むべき道を失い失意の中で天を仰ぐ私。空は雨。建物の壁には誰彼構わず微笑みを投げかける二次元の少女たち。
ん?雨、と、少女? 少女が、 濡れる?
そうだ!エロゲだ!エロゲを買おう!
進むべき道をおっぱいが照らす(意味不明)。そうと決まれば目指すところはソフマップだ。ソフマップに行けばエロゲが買えて、ついでにムチムチの水着のおねぇちゃんにも会えるはずだ。(ムチムチのおねぇちゃんはいませんでした)そんなこんなでたっぷり1時間くらい悩んだ末に1本購入。因みに私はエロゲを買うのは初めてである。エロゲ童貞を捧げる相手を選ぶためには1時間くらいはかかるものなのである。
装備が財布と携帯とエロゲになった。
入念にエロゲを選んでいたら時間は既にお昼時をだいぶ過ぎている。腹がすいたのでメイドカフェでも探すことにする。メイドカフェに行けばオムライスとかにありつけるものなのである。
再度街へ。
ソフマップを出ると雨が止んでいた。通りを行けばそこかしこでメイドさんがビラを配っている。それを無視して通り過ぎていく通行人が随分と冷たく見える。よしよし私がもらってあげよう、でも最終的には顔で選びますからね。私は下衆なのである。(というが、事前に下調べをしてないのだから顔で選ぶしかないではないか)
しかしながら、私はビラを回収しているだけなのにメイドさんたちはありがとうありがとうと感謝の言葉で見送ってくれる。あんまり感謝されるとこっちもなんかいいことしているような気持ちになってきた。嫌だ!これでは私がいい人みたいだ!つらい!これは早急に決めねば!
とか思ってた頃に「メイドカフェをお探しですか?」とちょっと踏み込んでくれるメイドさんが現れる。そうなんですよー。
「この辺り、うちの系列のお店がいくつかあるんですよー」といくつか紹介してくれる。「ここが〇〇モチーフのメイドカフェで・・・」という具合。へー。メイドカフェにもいろいろあり、ここまでの道のりで私がメイドさんだと思っていた人たちは一概にメイドさんというわけではなく、お店のコンセプトによってなんかいろいろあるらしい。話しかけてくれたそのメイドさんはマリオネットだった。
それにしても麗しいマリオネットだったので「あじゃあ、ここにしますー」っつったら、なんかお店まで一緒に連れて行ってくれるという。マジかよ、こんな綺麗な娘さんになら私ホイホイついていっちゃうぜ。
お店のコンセプトが人形っていうのもいいよね。人形っつったらあれだろ。四谷シモンとか天野可淡とかハンス・ベルメールとかのあれだろ?最高じゃねぇか。(違いました)
初対面特有の当たり障りのない会話を楽しみながらお店へ向かう。
大通りからちょっとだけ外れた路地、とある建物の4階にそのお店はあった。
エレベーターの扉が開き中に入ると、マリオネットたちが笑顔で出迎えてくれる。
「おかえりなさいませ。ご主人様!」
「ただいま」
そのメイドカフェの名は”Lost Kingdom”と言った。
OP ROLLYと絶望少女達 「マリオネット」
初めて帰宅するご主人様にはまずはお店のコンセプトを説明をしてくれる。
それなりに長いLostKingdomの物語をじっと私の目を見つめながら話すマリオネット。マリオネットがカンニングをしないようにずっと見つめ返す私。そのままノーミスで語りきるマリオネット。見事!
ずっと目を合わせてるのが楽しくて正直内容は全然頭に入ってこなかったけど、自分がマリオネットたちのご主人様であることと、おさわりセクハラは禁止だということは分かった。ご主人様も万能じゃない。
説明が終わったらさっそく注文だ。
電気ブランがあるじゃないか。珍しい。飲み物は電気ブランで、食べ物はガッツリボリュームのあるやつはあるかと聞くと。それなら裏フェニックスなるオムライスがおすすめなのだという。(やはりオムライスか!)では裏フェニックスをお願いする。
裏フェニックスができるまでの間マリオネットとおしゃべりすることができた。
しかしながらリアルの私は掴みどころがなく正直かなり話題に困る人材だ。
そんな相手と会話しようとしたときに相手の持ち物から話題を探そうとするのは当然の流れであっただろう。
「今日は何買ってきたの?」とマリオネットが尋ねる。
来た、この質問。前述したとおり私の持ち物は財布と携帯とエロゲだけだ。
普通に答えていいのか?引かれはしないか?と一瞬逡巡したものの聞かれたのだからしょうがない。引かれてみるのも楽しかろう。
私「…エロゲです」
マリオネット「エロゲ買ってきたんだ。いいなぁ!見ていい?」
私「?!」
一瞬で悟った。ここの倫理は下界とは異なる。ここはエロゲが「普通に」存在する世界だ。(あるいは秋葉原全体がそうなのかもしれないけど)
普段私が交流することのある女子って、「オタク=キモイ」と無条件で判断するタイプのパブロフちゃんなので、このやり取りは衝撃的だった。
まさかこんな可憐なマリオネットとエロゲの話ができるとは。世界は広い!
マリオネットさんは「みさくらなんこつ」とかのエロゲが好きで、「School Days」とかやってみたいのだという。なんて素敵なチョイスだ。
世界の広さを感じているうちに裏フェニックス(オムライス)が出来上がった。
ケチャップでお絵かきしてもらった。(ミクちゃんだ!)
食べる。なんてこった、どえらいうまいじゃないか。
なんかメイドカフェの食事ってこう、チャチなオムライスを法外な値段で出すものだという謎の偏見があったのだけれど、全然そういうのじゃない。
ライスにとろとろのチーズが絡めてあってねっとり濃厚で凄くおいしい。しかもなかなかのボリュームだ。料理へのこだわりを感じる一品だった。
そのあともマリオネットたちのプロフィールを見たりしながらまったりしたり、マリオネットたちが代わる代わるおしゃべりしに来てくれたりと楽しい時間を過ごすことができた。メイドカフェとかって「写真詐欺」というかプロフィールに惹かれて、実物を見てがっかりみたいなこともあるのかと思ってたけど(私は偏見の人なのだ)、みんなプロフィールの写真通り(あるいはそれ以上に)可愛らしかった。
エロゲの話をしたり電動工具の話をしたりメイドカフェ巡りしてみると楽しいよとか教えてもらったり話題も豊富かつ偏ってて素敵だ。
気分がいいのでマリオネットと一緒にチェキを撮ってもらう。中二病ポーズをリクエストしたらえらいクオリティーの高い中二病ポーズで撮ってくれた。
チェキが取れたら落書きタイムだ。「なんか中二病な名前考えて」とのことだったので考える。マッドサイエンティストな感じがいいけどなんかあるかなぁ…。
ドクター…。ドクター・ストレインジラヴ、は分かりにくいよなぁ。
とか考えてる間にも落書きは進む。あんまり待たせるもんじゃないな。
「ドクターマンハッタンでお願いします。 」
我ながら謎のチョイスをしてしまった。ドクターマンハッタンて「ウォッチメン」の”ォ”の下にいる全裸の青いやつだぞ。
ま、まぁいいか。「ウォッチメン」面白いし。
チェキも撮って満足したのでそろそろ会計だ。
それなりに長いこといたのでまあまあな値段だったけど、楽しかったからいいや。
会計が終わるとエレベーターまでマリオネットが見送ってくれる。
今日はありがとう、インフルエンザに気を付けて、花粉症に気を付けてとねぎらいの言葉をもらいながら帰路につく。
私が東京に来る機会はあまりないけれど、機会があればまた来れたらいいなと思った。
そうだ、今回買ったエロゲが楽しかったら次はマリオネットのおすすめの「みさくらなんこつ」のやつを買おう。
建物を出て見上げた秋葉原の空はすっかり晴れ渡っていた。
ED 谷山浩子「そっくり人形展覧会」
あなたとは分かり合えない 超人幻想 神化三十六年
戦後に思いを馳せる今日この頃。
かつて「戦争を知らない子供たち」だった若者たちも、もうジジイになり、闇市で残飯シチューを買い求めた人々も、もはや存在するのかさえ不確かです。
敢えて語られることの少ない戦後とは、一体どんな時期であったのか。
この本はそれを知る一助になるのでしょうか。
この本はですね、アニメ「コンクリートレボルティオ」(とても面白い)の前日譚として書かれたモノでありまして、アニメの世界観を補強する意味でも、昭和(作中では神化)への造詣を深める意味でも、いい読書でございました。4月から2期も放送するし。
(戦後を知りたいと思ったときに、戦後を背景とした物語から入るのが私のアプローチなのです。なんというか、その方が、人間が動くので。)
あらすじ!
時は神化36年。戦後16年、GHQによる占領が終了して9年。テレビの黎明期であるこの時期、TTH(東京テレビ放送)の局員として働く木更賀津馬が巻き込まれる凄惨な事件とは!殺戮は回避できるのか!?そして、超人とはなんであるのか!?
脚本家、會川昇氏による昭和史への深い造詣と、往年のSF要素をふんだんに詰め込まれた特濃残飯スープ!
あらすじ終わり!
残飯スープと書きましたがこの本を貶める意図は全くありません。いろんな要素をこれでもかと詰め込みながらどれも中途半端にすることなく1つの世界観にまとめ上げる手腕には「なにこれすげぇ」と言わざるを得ません。しかし、ちゃんとまとまってるなら残飯スープじゃねぇじゃんとも思えてきたので、調和のとれた残飯スープと言い直しましょう。ええ、長靴いっぱい食べたいですね。
この本の世界観は実際にその時代を体験した人なんかだとなつかしさを感じながら読むことが出来るのかもしれませんが、平成生まれのゆとり世代である私からするとほとんどファンタジーのようでした。
路面電車が走る東京にもネオンは輝くけれど、そこに確かに敗戦の名残もあり、裏ではGHQなんかが怪しい動きをしているっていう、得も言われぬいかがわしさ。技術が発達してないが故のテレビのあわただしさとか、諦観しているようで全然そんなことなく熱い夢を胸に秘めている登場人物たちとかが凄くいい。生きてるって感じです。
手塚治虫が美少女になっていて、その才能に自分だけが気付いてあげられるなんて最高に燃える(萌える)シチュエーションじゃないですか。(厳密には自分だけが気付いてたわけではないけれど)その才能を世に知らしめたい願望と、自分だけのものにしたい欲がせめぎ合って心と体が分裂しそうです。
戦後という時期は、あんまり物がないし、支配された経験からくる卑屈さというか疑り深さみたいなものがあるんだけれど、ここからいろんな才能が開花させ文化や風俗を生み出していくのだという野心や希望みたいなものを感じます。(これは宝塚明美=手塚治虫だと知っているから思うだけなのかもしれないけれど。)
超人の話をしましょう。
本作では超人が出てくるのですが、タイトルの割に超人の登場シーンは少ないように思います。「超人」を描くというよりは「超人のいる社会」を描いた本であるような気がします。と言っても、超人は当たり前のようにその辺を歩いてるわけではなくて(いや、その可能性もあるんだけれども)、超人は確かに存在するということを誰もが知っているんだけれど実際に遭遇することは稀っていう存在のようです。そんじょそこらの芸能人よりはちょっと遠くて、ビルゲイツとかトマス・ピンチョンよりはだいぶ近い、美空ひばりよりもちょっと近い(当時の美空ひばりを知らんけど)ってくらいの印象。(コンレボではもっとうようよいるような印象だったけれど、時系列が違うからか)
かつて人々はテレビ放送された東京オリンピック(神化15年)で超人たちを目の当たりにし、なんやかんやで戦争を語りたがるタイプの老人たちは出兵先で見た超人たちを話のタネにするものだから、例え実際に見たことがなくても誰もがその存在を知っており、その英雄的なイメージは憧れの対象となったりする。一般人から見た超人とはそういう存在のようです。(ただし、時代の変遷とともにこの超人観も変わっていくものらしくこの価値観は神化36年のものです。なんてややこしいんだ。)
でも実際は超人は英雄ばかりって訳でもなく、暴走して味方を手にかけたりした者や、暴走しなくてもろくでもない者もいたわけで、「英雄的なイメージ」っていうのは「超人幻想」=「一般人が超人に見る幻想」であったのかもしれません。コンレボでは「超人の見る幻想≒正義」みたいな意味で認識していましたが、作中の未来の日本では超人自体が幻想(架空の存在)のようになってしまっているので「幻想としての超人」(超人など幻想に過ぎない)みたいな意味にもとれそうだし、「超人幻想」っていうタイトルにはいろいろと含みがありそうです。
で、少なくとも、それぞれの「超人幻想」は決して交わることはない、ということだけは確かであるように思います。
だとすれば、それぞれ決して折り合いのつかない幻想を抱えた物語は一体どのような展開を迎えるのでしょう。何らかの答えが提示されるのか。あるいはやっぱり折り合いはつかないのか。それってどっちにしてもちょっと悲しい!
物語がどう転んでいくのか全く想像のつかないコンレボ2期が超楽しみです!
結局のところ信じられるのは自分だけ!
BGM はっぴいえんど しんしんしん
(コンレボははっぴいえんどでおわるのかしら)
江戸川乱歩「双生児」 カフェオレ式による人類の救済
角川ホラー文庫から出てる短編集の「双生児」を読みましたよー。
変なものを愛でるタイプの人々にとって江戸川乱歩は基本中の基本って気がします。でも私は実はあんまり読んでないので、そこんとこちゃんとしようと思って今回食指を伸ばした次第です。
あらすじ!
江戸川乱歩の短編より一人二役モノ「双生児」「一人二役」「ぺてん師と空気男」「百面相役者」「一寸法師」を収録したコンセプト短編集。もしあの人に成り代われたとしたら何をして遊びますか。
あらすじ終わり!
一人二役モノを集めたっていう触れ込みの割には一人二役が主題じゃない話もいくつかあって、少々こじつけ感がないではないが面白いのでOK。個人的には「江戸川乱歩」と「一人二役」というキーワードでポーの「ウィリアム・ウィルスン」みたいなのかなと想像したけど読んでみたら全然関係なかったぜ。
あと、古い日本の本って水戸黄門式で勧善懲悪を尊しとするものなのかと思ってたのだけれどそうでもないんですね。(むしろ勧善懲悪を尊しとしなかったからこそいつまでも新鮮で今まで楽しく読むことができるのかも)
今回読んだ本に関して言えば勧善懲悪を尊しとしないどころか悪の方が魅力的に描かれてた気がして、サド式の勧悪懲善とまでは行かなくても、悪役側の方に随分とヒロイックな印象を受けました。死に際に遺恨を残す双子の片割れ、自分の遊びに他人を巻き込んで憚らないペテン師や、かたわの身でありながら闇夜に暗躍する大悪党の一寸法師、まるで得体のしれない百面相役者。
こうも揃いも揃って素敵だと、江戸川乱歩さんはむしろ犯罪者の側になりたかったんじゃないかと思えてきます。どうにかうまいこと世間を騙してあんなことやこんなことができないかと考え抜いた犯罪計画がうまくいかなそうなので推理小説にしたら世間を魅了することに成功した。みたいなサクセスストーリーを妄想します。いいなぁ。
江戸川乱歩の物語って思うに思考実験的なんですよね。まっとうに考えたらありえなかろうと、諸々の事情はなんやかんやクリアできたことにして究極の状況を作り出したとき人は何を思うのか?みたいなことが基本方針としてある気がします。妄想狂江戸川乱歩のあんなこといいな、できたらいいなが感じられてすごく楽しく読めます。。
双子だったら入れ替わりとかし放題じゃん、実際に入れ替わって自分じゃない自分として見る景色はどんなだろう?とか、あの人が自分に見せている顔と別の人に見せている顔は違うはずだ、別の人にはどんな顔を見せているんだろう?とか、昨日会ったあの人と今日会っている同じ顔をしたこの人は実は別人なんじゃないか?とか。
そんな素朴でくだらないような気さえする疑問、しかし実際の答えようと思うとなんか答えに窮する絶妙なところを突いてきます。あぁむず痒い。
ほぼありえないんだけれど、しかし絶対に無理かと言われるとそうは言い切れないような気もするからこそ、「ありえねー」と思考を放棄することなく「いや、しかし」と考えることができるのかもしれません。
あり得るようであり得ないような、分からないようで分かるような絶妙なフワッと感、白黒つけないまま中途半端を良しとするのが江戸川乱歩なのかもしれません。カフェオレですねぇ。
このカフェオレ感には西尾維新とかひねくれた感じの現代小説で出会ったことがある気がするんですけど、そんな昔からあったんですねぇ。
えー、ここでカフェオレ式の素晴らしさでも解いてみようかと思います。
私の憂いている現代日本の病として、「白黒病」がありまして、(病名は今適当に命名しました)要は、何でもけじめが大事であり、初志貫徹こそが素晴らしく、何事も無駄なく円滑に進めなければならず、無駄や中途半端は悪であり、悪は存在してはならない、みたいな風潮ってあるじゃないですか。
その価値観に照らして考えるに、私なぞ毛髪の1本すら存在してはならないことになるんですよ。なんてこったい。まぁ、私はそんなの関係なく無駄と中途半端の存在を愛してるタイプなので別にいいんですけど。
でも、無駄なく白黒はっきりした完璧超人なんてそうそういないにもかかわらず、こういう価値観が蔓延してるから鬱病とか心の病気になる人がいるんじゃないかと思います、立派な人たちは大変ですね。
しかしながら、私としては立派な人たちがどんなに心を病もうと関係ないし別にいいんですけど、あいつらは他人にも白黒を押し付けてくるから嫌いなんですよね。私が憂いているのはそこなんですよね。
どうにかして立派な人たちにいなくなって貰えないものか 。いや別に死んでほしいって訳じゃなくて、うまいこと白黒病患者の数を減らしてもっと日本が幸福にならないものか、って意味です。
で、第二次江戸川乱歩ブームの到来による日本人の救済なんてどうかと思うのです。
時は奇しくも江戸川乱歩の没後50年!TPPの網をぎりぎりで突破した江戸川乱歩の著作権!歓喜する国民!群がる群衆!なんとなくブームだからというだけの理由で江戸川乱歩人口は増加の一途を辿り、知らず知らずのうちに国民たちは中途半端を良しとするカフェオレ式を体得するのです!したらなんか知らないうちに鬱病は絶滅し、祝福の花火が上がり、人類は幸福に包まれたのだ…。
みたいな。
これは非常に大げさに書きましたが、正直江戸川乱歩が人類を救済することはないですけど、特定の個人を救済するくらいならあり得る気もします。うん、なくはない。
そんなけったいなことを考えずに読んだって江戸川乱歩は超楽しいエンタテイメントなのだから、ただの暇つぶしでもいいし、イマドキの小説に飽きたなと思ったら読んでみればいいんじゃないでしょうか。
なんせ著作権フリーだし。
BGM 筋肉少女帯 ペテン
絶望と音楽 「ショスタコーヴィチの証言」 は正直かなり面白い
ショスタコーヴィチの証言を読みましたよー。
クラシックを齧ったことのある人ならば名前くらいは聞いたことがあるかもしれない、音楽史的にも重要な位置を占めるかもしれない書物をやっと読みましたー。いえー。
一応先に書いておきますが、この本は記者のヴォルコフさんがショスタコ先生にインタビューした内容を纏めて、ショスタコ先生の死後にヴォルコフさんの亡命先で初めて発表されたという代物でございまして、その発表の経緯や書かれている内容から、当時より「ヴォルコフが創作した偽書なんじゃないか」との疑いをかけられているのです。で、私がネットで調べた限りは、「偽書っぽいけど全部でたらめって訳じゃない」というクソ曖昧なのが定説なんだそうです。
そうなんですけど、
私は「証言」に書かれている内容は全て「ショスタコ先生の語った真実」として受け取りたいと思います。(「実際にあった真実」ではないところが地味にポイントです)
理由は、そっちの方が面白いので。
私は別に研究者とかじゃないんで、真実よりも面白さの方が重要なのです。ショスタコ先生は「証言」に書かれているような人間であって欲しいというのが私の願いであり、過去は改編できるのがソ連式なのです。(ショスタコ先生に嫌われそうな考え方ではあるけど)
では、
あらすじ!
今語られる20世紀最大の作曲家ショスタコーヴィチの生涯!死臭に満ちたスターリン体制下のソ連で彼は誰と出会い何を思いどう生きたのか!?
あらすじ終わり!
この本、正直かなり面白いんですよ!
一応体裁として、ショスタコーヴィチは自分語りが嫌いなので、ショスタコーヴィチと関わりのあった他人について語ることによって、ショスタコ自信の考え方などについても明らかにしていくという書き方をされており、当時の芸術界隈や社会情勢、政治との関わりなどが包括的に語られて、ショスタコ先生の思う芸術のあり方みたいなことにも非常に深く言及されている超すげぇ本なんです!
ショスタコーヴィチと交友があったり、その人の作品から影響を受けた人々というのは例えば、グラズノフ、マリア・ユーディナ、トゥハチェフスキー、メイエルホリド、ゾーシチェンコ、アンナ・アフマートワ、ゴーゴリ、ムソルグスキーなど他にもたくさん。逆に軽蔑の対象として語られるのは、スターリンやその不愉快な仲間たち、体制に媚びを売るくだらない芸術家などです。
その人たちについての忌憚のない率直な印象が語られています。たまにえらい大御所がdisられててびびります。例えばトスカニーニのショスタコの解釈は全て間違ってるんだそうです。まじかー。
本の中でも非常に多くのエピソードが書かれているのがグラズノフなんですけど、グラズノフとショスタコーヴィチの何とも言えない師弟関係は読んでて嬉しくなっちまいます。曰く「グラズノフの作品は正直退屈だが、それでもグラズノフは本当に偉大な伝説の音楽家である。」(意訳)。他にも、グラズノフはほとんど年を取ったでかい子供だとか、重度のアル中で授業中に隠れてウォッカを飲んでたとかのエピソードを語りながら、それでも本当に偉大な音楽家なのだと力説するショスタコ先生が微笑ましく、素敵です。
この本で初めて知った人の中で気になったのは、ピアニストのマリア・ユーディナ。曰く「ユーディナが弾くとどんな曲でも他の誰とも違う演奏になる」のだそう。気になったのでyoutubeに上がってるのをいくつか聞いてみたらマジでそうだった。なんというか、バッハがヴェルディみたいにドラマティックになってた。私はピアノ曲は疎いので他の演奏との比較はできないのだけれど、こんな演奏をするのはたぶんこの人だけだ。語られるエピソードも破天荒そのもの、「恵まれない人に自分の家をあげた」り「貰った金をすぐに恵まれない人に寄付してきた」り「スターリンにえらい不遜な手紙を送った」り訳が分からないけれど非常に愉快で痛快です。本の中でショスタコ先生が何の解釈も加えない相手はこの人だけだったかもしれない。
ゾーシチェンコ、アフマートワ、パステルナークらは作家、詩人で非常に気になる存在なんだけど翻訳されてる本がえらい少ないみたいで悲しいです。
そんな感じで普通に楽しい話をそこかしこに織り交ぜつつ、それだけで終わるわけがないのがスターリン体制下のソ連です。
先ほど沢山名前を挙げたショスタコーヴィチと交友のあった人々ですが、そのほとんどは当局からの弾圧によって国外に亡命したり、失意のうちに死んだりします。この絶望!
語られる環境が余りに理不尽かつ余りに絶望的過ぎて正直ドン引きです。
例えば、
昨日まで生きてた人が今日になったら記録からも記憶からもいなくなった。
スターリンがちょっと嫌な顔したので粛清。
子供が親を密告する映画が美談として作られていた。
など。
オーウェルもびっくりのディストピアが、リアルにそこにあったものとして描かれるのです。「動物農場」と「1984年」は読んでるし、ソ連が元ネタになってるのも知ってたけど、小説だからある程度は誇張されてるものだと思ってたんだけど、そうじゃねぇんだなっていうのがよくわかる。オーウェルがびっくりしたディストピアがそこにありました。
今日友人だった人が明日には密告者になるかもしれず、常に死と隣り合わせの国で、実際に友人や知人、民衆の死を目の当たりにしながら絶望の淵に立って音楽を作り続けた男、ショスタコーヴィチ。この本を読むことによって彼の残した音符の裏に人々の屍や独裁者の影を見つけることができるかもしれません。
また、音楽を紐解くための一助としてだけでなく、人々の悲劇を知り、過ちを繰り返さないためにも、もっと広く読まれるべき本です。
あと、別にそんな堅苦しい目的がなくても、この本が面白いというただそれだけの理由で読んでもいいと思います。
Shostakovich Sym.11 2nd Mov. - 2
(これかっこいい曲だと思ってたんですけど、本を読んで「血の日曜日事件」を調べてから聞くと、祖国への失望と恐怖で涙が出るんですよ)
自由を勝ち取る 革命的ブックカバー製作
この記事は前置きが長くなりますので、私にとっては前置きもかなり重要な内容ではあるのですが、完成したモノだけ見たい方は飛ばして頂けると幸いです。
私が2015年に行った展覧会の中で(3つくらいしか言ってないけど)印象に残っているもの中に「魔女の秘密展」で見た拷問器具たちがあります。
展示されていたのは「スペインの長靴」とか「棘のある椅子」「苦悩の梨」など、どれもえげつないものばかり。魔女疑惑のある容疑者側を苦しめ、時には死に至らしめるために最適化された造形に驚愕したものです。
こんな悪意に満ちた造形って他にあるんでしょうか?
例えば銃は人を殺すための道具ではありますが、その背後には「自分や他人の身を守るため」だったり「祖国を守るため」に必要な武力として製造されている面はある気がするし、「使われずに済むのが1番いい道具」っていうのが(基本的な)共通認識としてある気がします。機能的な面としては(使い方にもよると思いますが)相手を即座に死に至らしめることもできます。
これに対して拷問器具って明らかに「使うため」に製造されたものであり、これによって何かが守られるわけでもなく(当時の人たちは魔女から身を守ろうとしたのかもしれないけど実際何も守れていない)、相手を死なない程度に苦しめた挙句場合によっては殺すという全く擁護する余地のない最悪の機械のように感じたです。
その形状から容易に想像されるある意味純粋な”悪意”に(私を含む)人々は心を抉られるのかもしれません。
そして正直な所、私が何かものを作ろうと思ったときに拷問器具のような「心を抉る造形」というのは、酷く憧れてしまうものでもあるのです。
ブックカバーの話をしましょう。
上記の内容が今回のブックカバー製作の初期衝動みたいなものです。しかしながら、拷問器具のイメージで作ろうと思った当初は「何故自分は拷問器具に憧れるか」という所まで考えが至っていなかったので、漠然とした「それらしさ」みたいなものは組み込んだものの、”悪意”を詰め忘れたことについてあらかじめお詫び申し上げます。
拷問器具を連想させるものとして象徴的なのは、ねじ式のバイスによる締め付け機構が最もそれらしいとは思うのですが、今回は「拘束」を連想させる鎖を使用することにしました。(バイスによって本を持つ手の指を締め付けて固定し、手を離すことができなくするブックカバーというのも考えなかったではないのですが、さすがにボツにしました)
素材は革を使用します。今回は「血」のイメージで赤色のものを選びました。
ここまで決まった時点で物語を考え始めます。私がものを作るためには物語が必要なのです。
拷問を受けるのは基本的には罪人であり今回は鎖を使用することからも場所は「監獄」を想定することができます。
そして今回選んだ赤色の革!この革を見ているとどうにも感情が高ぶるなーと思っていたのですがその理由が分かりました。赤は「革命」を想起させる色です!(これは主にロシア、ソ連のイメージですね)
そして作られるものがブックカバーである以上は何かしらの「文学」的要素が必要となります。
「監獄」「革命」「文学」この3つの点を結ぶことができる1本の線!私が思うにそれは「フランス革命」であります!
「フランス革命」は、それまで貴族たちによって搾取されるがままだった第三身分の民たちが暴徒と化し、遂には貴族の地位をひっくり返し、当時の国王ルイ16世や王妃マリー・アントワネットを死刑するに至る歴史上の重大事件です。その口火を切ったのが当時の絶対主義の象徴でもあったバスティーユ牢獄の襲撃事件です。既存の価値観をひっくり返し自由を勝ち取るというのは文学的にも魅力的なテーマではありますし、バスティーユには襲撃事件の10日ほど前まで「ソドム百二十日」を執筆中のサド侯爵が収監されていたとされており、また「鉄仮面の伝説」など後に多くの作家に取り上げられるエピソードにも恵まれています。
今回のテーマは「フランス革命」、とりわけ「バスティーユ襲撃」に決定します。
囚人を拘束したり開放したりするブックカバーとは如何なるものなのでしょうか?
はい!
以上のことを踏まえまして出来たブックカバーがこちらになります。
わ、割とかっこいいんじゃないですか?
反対側。
文字はですね、出来もしないフランス語で書きましたので、いざ読めと言われると発音できないやつですが、意味は以下の通り。
「prise de la Bastille」バスティーユ襲撃
左側のはルイ16世がバスティーユ襲撃の知らせを受けた際に交わされたらしい会話。
「C'est une révolte?」暴動か?
「Non sire, cen'est pas une révolte, c'est une révolution.」いいえ閣下、暴動ではありません、革命です。
「le 14 juillet 1789」1789年7月14日
勉強になるなぁ。
本の背表紙のあたりに曲げ代(という言葉があるのかは知りませんが)がついており、本の厚みにより折り返す量を調節します。本の厚みに無段階で合わせられる機構にするのは私のちょっとしたこだわりポイントでもあります。
折り返したた部分が勝手に開かないように鎖で拘束します(やだ、監獄っぽい)。拘束具は100均で買ったヘアピンです。(弱っ)
囚人を解放するとこんな感じになります。曲げ代は結構あるのでたぶん京極夏彦とかでも入ると思います。本に取り付けたときに下に来る方の曲げ部は位置を固定しても問題がないので、曲げた状態で縫い付けてあります。
裏側。
いかがでしたでしょうか。
今回は割とかっこいいのができた気がします。かっこよすぎて電車とかで使うのを躊躇うレベル。欲を言えば文字の側が少し寂しい気もするので気が向いたときに何か追加するかもしれません(フランス王家の紋章でも入れようかしらん)。
これの欠点としては、鎖が重いので使ってる時に鎖の側がだらーんとなった挙句本から外れることがあります。これが結構不便!この欠点は鎖を使わないことにっよって解決することができます。機構に限った話で言えば別に鎖を使う必要はなく、紐とかでも問題はないので。
さて、
我々は自由か?
朝起きて仕事に行き帰ってきて寝て、また朝が来る。
身体は最早社会の奴隷ではないか。
では、心はどうか?
社会の観念、価値観にとらわれて本当の自分を失っていはしないだろうか?
居もしない他人のために生きてはいないだろうか?
奴隷根性を植え付けられ、ともすればそれを誇りに思ってはいないだろうか?
身も心も社会の奴隷に成り下がってはいないだろうか?
今こそ革命の時である!
囚われの自己を解放せよ!
読書による精神の解放を!
革命的ブックカバーを使って革命的読書ライフを楽しもうではないか!
以上!解散!
(フランスじゃないっていう)
破壊しよう、人生を 書を捨てよ、町へ出よう
昭和が面白い今日この頃。今回は寺山修司「書を捨てよ、町へ出よう」を読みました。
あらすじ!
稀代のアジテーター寺山修司による、つまらない人生をつまらないまま終わらせないための指南の書。
あらすじ終わり!
正直なところ、序盤は「何言ってんだこいつ頭おかしいんじゃねぇの」と思わなかったではないんですけど、進んでいくにつれて面白くなっていったので最初だけは老人の戯言を聞いてあげるくらいの気持ちで読み飛ばしてもいいのかと思った。それか、当時はこんな理屈がまかり通ったのかと感慨にふけってみたりしてもいいのかもしれない。だって「卓球より野球の方が、野球よりサッカーの方が男性的だ。それはタマがデカいからだ」(意訳)みたいなことが本気で書いてあるんですよ。(いや、飲み会のノリで書かれた可能性もあるけど。)さすがにこれでは「そこに気付くとは流石寺山!よ!寺山屋!」とはなれないので、序盤については「そうかー、当時はサッカーブームだったかー」「当時の若者は過激だったなー」くらいの感想でよかったかと。
名作って時代を切り取らないから100年前の本でも楽しく読めるものが多いと思うから、こんなに時代を切り取っている(たぶん)名作というのも逆に珍しいかもしれない。
後半はですね、割と時代を問わず楽しめると思われる話でした。
テーマ的には、「ファイトクラブ」とかが近いのかもしれない。
っていうのもですね。おそらく誰もが感じたことがあるであろう「人生のつまらなさ」に抗うための寺山式の方法論が語られるからであります。
曰く、「一点破壊による人間の回復を」
私たちが慢性的に「人生のつまらなさ」を感じてしまうのは何故か?
それは人生の先がほとんど完全に見通せてしまう状態を良しとする「バランス主義」によるものである。
人生この先結婚したり子供ができたり定年したり老後の生活なんかも考えないといけないから、それまでに貯蓄をうまいことやりくりして、とにかく全てのイベントを平穏無事に済ませることが素晴らしいのであり、そのためには身なり、食生活、その他の嗜みについても分相応であることが望ましく、細く長く天寿を全うすることこそが幸せなのである。
というのが「バランス主義」。何の修飾語もなしに使われる「幸せ」って言ったらたぶんこういうのを指すんではないかしらん。
そしてそれの全く逆をいくのが寺山修司でございます。
先の見え透いた人生なんてまっぴらごめんだ。金は賭博につぎ込もうぜ。分相応なんてくだらない。例え短い生涯でも美しく死ねれば本望でございます。さよならだけが人生だ。
という具合。
こうやって抜き出して書くとただのアホ頭みたいになっちゃうんだけど、ちゃんと本に纏められたものを脈絡に則って読むとちゃんと人生の教科書として読めちゃうんですよ。
極端に書くと上記のようになってしまうんですけど、なにも破滅の一途を辿ろうぜと言うような集団自殺推進の書ではないんです。なんと言いますか、つまらない人生に張りを与えるためにどこかで一つくらい極端なことやってみようぜ!ってくらいの解釈でいいんだと思います。
例えば賭博です。
人生この先働いて働いて終わるだけ。そんなのは嫌じゃないですか。
ならば競馬に行きましょう。ここらで一つドーンと当てて人生アがってしまいましょう。それは可能性で言えばほんの1000分の1%程度かもしれません。それでも完全な0ではないのならばそれは希望になりえます。
誰も絶対当たらないと思って馬券を買う人はいないのです。もしかしたらいつかデカい当たりが来るかもしれない。もし万馬券が当たったら会社なんてスパッと辞めて残りの人生遊んで暮らすんだ!と思い続けることができるならば賭博も結構悪くないんじゃないですか?
それに寺山修司のころよりも時代は進んでいるので方法は賭博に限る必要もないと思います。ちょっと大多数の人はやらないような極端なことをやってみればいいんです。
そんなにお金をかけない方法でも、youtubeとかニコニコに動画を投稿してみるでもいいし、同人誌とかを出してみるでもいいし、ミュージシャンとして路上デビューしてみるでもいいし、化石とか金とか油田を掘りに行ってみるとかでもいいでしょう。(出来れば先人のいない未開拓なゾーンを突くことができると素敵なんですが)
なんならこのブログだって書き続けてれば、なんか書籍化とかされてなんか売れてなんかもう働かなくていいやーみたいなことになる可能性が10000分の1%くらいはあるんじゃないですか。それってワクワクしますよね。
「それでもいつか、きっと」と希望を持つことによって人生の不透明さが増し、頑張る気力も湧いてくるものです。
寺山式の一点破壊の手法については私はだいたいこんなふうに読み取りました。本で読んだ方がこの手法についてもちゃんと理解できるし、面白いのでオススメです。
その他にも「一点豪華主義」の話や、「自殺学入門」など興味深い章がいくつもありますよー。
もしかしたらこの本を手に取った瞬間から「一点破壊」が始まるかもしれません。
読み終わったらこの本を捨てて街へ繰り出しましょう。
さよならだけが人生だ。
(正直、別に本を捨てる必要はないと思うんだけど)
BGM
上坂すみれ 「げんし、女子は、たいようだった。」
”書を捨てないで街へ出て キミと出会いたい”