私は幸せかもしれない O嬢の物語
マゾとは如何なるものかを世界に知らしめた一冊として有名な「O嬢の物語」を読みました。
偏見かもしれないけれど、特殊性愛とかに関して突き抜けたところまで踏み込んでる書物って作者がだいたいフランス人なイメージがある。「O嬢の物語」も然り。サド侯爵然り。貴族制度により働かなくても生きていける人たちが快楽の極みを求めた結果なのか(O嬢は貴族の時代の小説ではないけど)元々そういう土壌があるのか、遺伝的なあれなのかはわからないけれど、フランス人って偉大だわ。
あらすじ!
ある日恋人により謎の館に連れてこられた”O”はそこで腕輪や首輪により拘束され、鞭打たれ、不特定多数の男たちから凌辱される日々を送ることになる。しかし、彼女は本当に不幸だったのだろうか?
あらすじ終わり!
そういうことだったのか、マゾヒズム!
自分はそっち側ではないようなので、共感は出来ないまでもわからんではないという感じでした。「家畜人ヤプー」よりもマゾヒズム研究には役立ちそうです。
つってここで「マゾっていうのは自分が恋人の所有物であることによって愛を感じるんやでー。」みたいなことを語ってもなんか本の内容ともずれる気がするし、感覚的なことだから説明的な文章では結局伝わらない気がするので、その辺は割愛します。
(自分がそっち側ではないようなのでちゃんと理解できているかどうかも怪しいところですし。)
物語に乗せることによって、感覚的なことが感覚的に伝わるっていうのが小説って形式のいいところだと思うので、マゾヒズムの神秘に近づきたい人は「O嬢の物語」を手に取ってみるのがいいと思います。
なのでここからは私の理解の及ぶ範囲で「奴隷状態における幸福」について書こうかと思います。この話はマゾヒズムからはちょっと離れてしまうんだけどご了承ください。っていうのもちょっと汎用的になりすぎて性的要素からはなれてしまう所があると思うので。
例えば、
真っ白い紙を渡されて「何かかけ。」と言われたときに、実際に何かを書き始めるのってえらい難しいと思うんですよ。鉛筆を使えばいいのか絵具を使えばいいのか絵を描けばいいのか字を書けばいいのか。絵だとすれば何を?字だとしても何を?難しい上に正解がない、雲に飛び乗ろうとするような、砂漠に一人取り残されたような不安感が自由にはあるんだと思います。
紙に書くのが今年の目標だとか、キリンの絵だったらこんな楽な話はありません。
なんでもできるはずなのに何もできないという漠然とした不安から救われるために人々は拘束されることを選ぶのだと思います。
拘束されるっていうのは、閉じ込められるとか、繋がれるとか、そんな大げさなものではなくて、休日に必死で予定を詰め込むとか誰か一人の伴侶になるとかそんなレベルの話です。勿論拘束されることを選ぶのも自由です。
毎日毎日「忙しい忙しい」と譫言のように連呼してる人っているじゃないですか。その実わざわざ用事だのなんだのを詰め込んで忙しくしてんのは全部自分だったりして。好きでやってんだったら文句垂れてんじゃねぇよ。しねよ。
っていうふうに思ったことって当事者以外の誰にでもあると思うんですけど、あれも「奴隷状態の幸福」の一種だったのかなって今になって思います。
あの人たちは自由になるのが嫌で嫌でしょうがなくて来る日も来る日も自分に自由など与えぬようギチギチと予定を詰め続け、自分を縛り付けることによって快感を感じていた変態さんの鏡だったのだなぁと。
とはいえですね。あの人たちって「奴隷状態の幸福」を享受していながらきっと幸せではないんですよ。周りから見れば明らかに好きでやってるのがまるわかりなのに本人たちは割と真面目に苦しんでたりするのが脳髄のマジック、人体の摩訶不思議。
あれって本当の自分の感性が分かってないから起こる悲喜劇だと思うんです。要はですね、まさか自分が変態さんの鏡だなんて全く思ってないから自分は不幸だと勘違いをしているんですね。確かに、「あなたは先天性の奴隷ですよ」と言われてそれをすっと認めることができる人などいましょうか?
常識に照らして考えるに、「自由とは素晴らしいもの」であり「隷属されることは辛く悲しいこと」であるのですから。自由など全く手にしていない自分はかわいそうでみじめな生き物でしかなく、幸福など一切感じることはないのでございます。
っていう勘違いをしているんですね。そんなわけないのに。常識は自分のために作られたものではないのですから完全に自分に当てはまるわけがない。
常識から解き放たれー!自分の感性に正直に向かい合ったときー!何一つ自由のないあなたはー!真に!幸福であるのかもしれない!
その可能性を見出すことができる一冊こそが!「O嬢の物語」であるのです。
この物語の中では「私はあなたのものだわ」「君は僕のものである前にステファン卿のものだ」「あなたは誰のものなの」といった狂気の日常が描かれますが、日常化した狂気は最早狂気ではなく、あたりまえのこととして脳に刷り込まれます。その結果、苦痛の中に快楽を見出すという狂気を常識のレベルにまで貶めることができるのです。
常識に則ってしかものを考えることのできない不幸な喜劇人たちにとってこれほどの救済がありましょうか?彼らは隷属されることがどれだけ幸福であるか=自分はどれだけ幸福であるかを「O嬢」から学ぶことができるでしょう。フランス人って偉大だわ。
ではでは、ここらで終わろうと思います。
お幸せに!
一人で強くなるということ バケモノの子
普段あんまり流行りものみたいな映画を映画館で見ることはないのだけれど、誘われたんで公開初日に見に行ってきました。こんなの初めて。
以下の文章は一応、ネタバレ、批判、独自の解釈注意です。
あらすじ!
なんやかんやあってバケモノの世界に迷い込み、バケモノの世界で”九太”と名付けられた少年は師匠?熊徹をはじめとする様々な人(バケモノ)と出会い、関わり合いながら成長したり葛藤したりするのでありました。そして九太の成長は九太だけのものってわけでもないのでした。
あらすじ終わり!
んー。
「千と千尋~」的、不思議世界奮闘物語かと思ったら、子供と親(師匠)の成長を見守るハートウォーミングストーリーになり、「おおかみこども~」の序盤に見たような恋の予感を感じさせつつ、熱い戦いを繰り広げた上で、「おおかみこども~」の終盤で見たような葛藤を描いた映画!
という感じでした。
場面毎で急に物語の方向性がガラッと変わる所が幾つもあって、「あれ、そういう話だっけ?」みたいな疑問を随所で抱かせつつなんやかんや最後はうまく纏まってました。
とはいえ、どっかで見たような絵面が多くて「これはここから引っ張ってきたのかなー?でもあっちの方が出来がいいよなー。」みたいなことを考えてしまってあんまり物語に入れなかったです。
例えば、九太の名前を付けるまでのシーンは割と明確に「千と千尋」を意識してると思うんだけれど、両親が豚にされて意味不明な神々が跋扈する「千と千尋」の異世界に比べて、「バケモノの子」の異世界ではすぐにやさしい坊主と出会えて割と誰でも想像するようなバケモノが蔓延るなど、要は最初から優しすぎるんじゃないかと。
あと、猪王山と熊徹、九太と一郎彦、みたいな対比の構図がえらいあからさま過ぎて「教科書通りにやりました」感が拭い去れなかったりと、製作者の「お前らこういうので感動するんだろ」的思惑がチラついてしまってもうちょっと乗り切れなかったです。(被害妄想かもしれませんが)
文句を言いつつもこの映画で考えてみたいテーマの一つや二つはあるものです。
メルヴィル「白鯨」と「バケモノの子」
一人で強くなった熊徹
がそれです。(父性とかは好みじゃないし、アイデンティティの危機の話は「おおかみこども」で見たしなぁ。)
とはいえ、メルヴィルの「白鯨」は読んだことないし、手元にないし、映画見て初めて知ったし、なので追い追い読む機会があった時に「バケモノの子」と絡めて語るか絡めるほどのこともないか判断するとします。
なので、
「一人で強くなった熊徹」
についてちょっと書きたいと思います。
(ただしほとんど私の妄想ですが。)
「一人で強くなった熊徹」というテーマは「何故、熊徹は宗師になりたいのか?」っていう所に大きくかかわってきます(自分的に)。たしかそのあたりの事情については物語中では語られてなかったと思うのだけど、だって宗師って「バケモノの国の長」みたいな存在じゃないですか。弟子一人を育てるのもめんどくさがっていた熊徹がそんなめんどくさそうなものになろうとしているっていうのは結構な不思議ポイントだと思うんです。
次期宗師の候補は2人。
片や猪王山。
誰よりも強く、公明正大、時に優しく時に厳しく、弟子に対して分かりやすく丁寧な指導を行う。ルックスもイケメンだ。
に対して、熊徹。
確かに強いが乱暴で自堕落、弟子への指導は意味不明で適当、いい年してバイトで食いつないでる。ルックスも頭悪そうだ。
熊徹って、一般的にいう所の「いいところ」がないんですよね。いいところがないから一般バケモノたちも基本的に猪王山が宗師になることを望んでいるみたいだし、私も別に熊徹は宗師にならんでもいいんじゃないかと思う。
頑張って宗師になったところで他人はおろか自分さえもあんまり幸せになれないことくらい熊徹でもわからんはずはないんです。わかっていながらも熊徹には猪王山を打倒して宗師にならなければならない”必然”があったはずなんです。
熊徹って、実は結構真面目な奴だと思うの。
何も考えてないのにたまたま強く産まれてしまったチンピラでは決してない(それが分かるシーンもあったね)。
熊徹には熊徹のメソッドがあって(というかメソッドから自分で作り上げて)、ちゃんとうまくいくやり方を研究して、考え抜いた結果として強くなったんだと思うんです。生活がどんなにだらしなくてもトレーニングだけは決して欠かさないしね。
これに対して、猪王山の強さは(たぶん)良き師匠に恵まれ、メソッドに従い技を引き継ぎ、それを磨いて得たものだと思う。
猪王山も真面目に努力して強くなったことは確かなのだけれど、熊徹も同等かそれ以上の努力をして強くなったはずなんです。
道は違えど同じように努力して強くなった二人なのに、猪王山は全てのバケモノから称賛され、尊敬されている。熊徹はほとんど誰からも相手にされず、称賛されることなどない。
そんなの許せるか?
否(ニェット)!
絶対に許すわけがない!
そこで熊徹は考える!
誰も文句を言うことのできない絶対的な栄光を勝ち取り、世界を振り向かせるために!一体どうすればいいのか?!
渋天街を二分するほどの力をたった一人で手に入れてしまって尚、誰からも相手にされない熊徹に!残された方法はもう一つしかないじゃないか!
そう!
最後に残されたたった一つの方法こそが、猪王山を打倒し!宗師の座に就くこと!なのである!
ということを考えたのですが、どうでしょうか。(けっこうズレた見方をしてしまっている自覚はあります。)
正直「バケモノの子」という映画を1回見ただけで書いているので、本編中に上に書いたことを全否定する描写がある可能性もありますが、妄想は自由だと思うので。
上に書いたような話を好むような人だから「バケモノの子」という映画にあまりハマれなかったんだなぁと、思いました。
文学で発電は可能か 青い脂
ウラジーミル・ソローキンの「青い脂」を読みました!
自分的に、古典が偉大過ぎる文学界隈で現在進行形な作家はピンチョン、ソローキンあたりっていう偏見があって、「読書とかけっこうする方」とか言っちゃう身としては読んどかないとと思っていたのです!
本屋で実際に手に取ってみると帯の煽り文からして素敵すぎて凄く素敵です!
あらすじ!(帯に書いてあるやつ)
2068年、雪に埋もれた東シベリアの遺伝子研究所。トルストイ4号、ドストエフスキー2号、ナボコフ7号など、7体の文学クローンが作品を執筆したのち体内に蓄積される不思議な物質「青脂」。母なるロシアの大地と交合する謎の教団がタイムマシンでこの物質を送りこんだのは、スターリンとヒトラーがヨーロッパを二分する1954年のモスクワだった。スターリン、フルシチョフ、ベリヤ、アフマートワ、マンデリシュターム、ブロツキー、ヒトラー、ヘス、ゲーリング、リーフェンシュタール…。20世紀の巨頭たちが「青脂」をめぐって繰りひろげる大争奪戦。マルチセックス、拷問、ドラッグ、正体不明な造語が詰めこまれた奇想天外な物語は、やがてオーバーザルツベルクのヒトラーの牙城で究極の大団円を迎えることとなる。
あらすじ終わり!
訳が分からないけど素敵な単語がこんなにもちりばめられた帯!
無学なもので文学クローンの中で読んだことがあるのはナボコフだけだし、それ以外の人も、顔が思い出せるのはヒトラー、スターリンぐらい、名前ぐらいは知ってるのがフルシチョフぐらいという体たらくでございまして、そんな私にこんな本がまともに読みこなせるはずもないのでした。
この本は大きく分けて3部構成になっていて、それぞれ、クソ科学者パート、変態奇人パート、世界史同人パートって感じです。さらにそれぞれのパート内で文学クローンの作品をはじめとする謎の 短編が挿入されるというごちゃごちゃ構造になっておりよくわからない。いや、大筋は一応分かるのだけれど、その他の雑多な部分に吐き捨てられた隠喩的なところとかを読み取る、ないしは妄想するくらいのことができたらもっとずっと楽しいんだろうなとは思った。
史実に基づいた人間関係みたいなのを把握できたらまた読みたい。
とはいえ、無学でもググり癖があれば結構楽しめるんじゃなかろうか。
wikipadiaとかで調べると情報が多すぎて結局分からないことが多いのだけれど、 エジョフ、ラブレンチー・ベリヤあたりはアンサイクロペディアがやたら充実していて、やばいやつらだということが分かりやすかったです。そこを踏まえると、やっぱり読み方も変わってくるっていうのを自分でも感じました。
あとは、アフマートワとかリーフェンシュタールあたりは、なにやらソローキンさんからの評価が高そうな気がしたので機会があれば作品に触れてみたいなと思ったり。実在した登場人物がものすごく多いから文学とか世界史のカタログみたいな使い方もできるかと。
とまぁ、
以上がこの本の装飾部分になるのかなと思います。装飾部分が楽しすぎて頭の中がカッテージチーズみたいになっちゃうんだけれど、この本の主題=タイトルは「青い脂」なわけで、そのあたりのことも一応考えておかないとまずいかなって。
本文に出てくる説明では。
青い脂は超絶縁体である。
超絶縁体とはエントロピーが常にゼロに等しい物質である。
その温度は常に不変であり、供与体の体温に等しい。
(供与体とは文学クローンのこと)
とのこと。要は超すげぇ物質だ。
熱力学の問題は解けなくなって久しいのであんまり確証はないけれど、
カルノーサイクルとかを実現できる理想的な熱交換器の材料になったり、
シベリアの永久凍土でも人肌ぬくぬくの超断熱コートの材料になったり、
するんじゃねぇの?
そんなすげぇ物質をみんなが欲しがるのは当然として、それと文学と何の関係があるっていうのか。
エネルギー問題をトップディテクトに解決する超物質が、何故、科学の英知でもなく、自然現象の奇跡でもない。奇人の脳髄から垂れ流された妄想の副産物として生成されるのか。(それすらも文学クローンという形で工業化されようとしているのだから恐ろしいのだけれど)
なんなんでしょうね。ソローキンさんは文学の中に不変のエネルギーでも見たんですかね。
芸術の中で古典と呼ばれるものっていうのは現在でも変わらず、当時リアルタイムでそれを体験するのと同じ感動や熱狂を提供してくれるものであります。人々を魅了し続けたまま100年残った物はそりゃあ、あと100年経っても残ってるだろうし、人間が存在する限りは存在し続けるんじゃねぇかな。そういうのが物質として固着されたのが青脂なんじゃねぇの。じゃあ、音楽でも絵画でもすげぇ芸術家の体内には青く光る中性脂肪が蓄積してんじゃねぇの。
みたいなことも考えたのだけれど。
たぶん否(ニェット)だ。
絵画はきっと人間が存在している間に風化して見る影もなくなってしまうし、音楽は脈々と演奏され続けていると思いきや、作曲者の意図したものがそのまま伝わっているかっていうと微妙だ。結構時代によって曲の解釈とかも変わってくるし、流行りみたいなのもあるから。
(その辺の事情を、未来のボリショイ劇場くそみそエフゲニーオネーギンのシーンで匂わせてる気もした。曲は古き良きチャイコフスキーなのにやってることはくそみそだな、っていう。)
その辺まで踏まえると、作者の意図したものが何年たってもそのまま受け手に届く芸術っていうのは、文学くらいなのかもしれない。
文学ってすごい!
みたいなことかしら。(なんかえらい軽くなってしまったけど・・)
書いててこれを思い出した。
瓦礫の地 闇の中で本を読む少女に たった一つの電球をともすため ヘッドバンギングは遂に 発電に利用された!
文学や音楽がトップディレクトにエネルギー問題を可決する日は刻一刻と近づいているのかもしれません。
アナモルフォシスの冥獣 は破格ミステリ
表紙で気になってた「アナモルフォシスの冥獣」を読みました!
この表紙です!素敵!枕元に置いときたくない!
不謹慎界のカリスマ!奇想漫画家!駕籠真太郎の描くミステリの新機軸!これは、新しい!
あらすじ!
知る人ぞ知る降霊イベント「アナモルフォシスの館」。なんでも故人の死んだシチュエーションのセットに霊を呼び出すんだとか。その中で2日間過ごすだけでえらい額の賞金が手に入るんですって。そんなうまい話に騙されたチョロ松たちが次々に非業の死を遂げていくのです!
あらすじ終わり!
これはいいですよ!
バカミスとの評価をされがちな本書ですが、確かにバカミスではあるし、確実に本格ではないにしても変格まで行くかというとちょっと迷うくらいの破格っぷり。
そう、破格ミステリ!
割とネタは出尽くした感のあるミステリ業界においてこんなにも新しくて面白いトリックに出会ったのは久しぶりだ。島田荘司以来かもしらん(当社比)。
漫画ならではのトリックであり、漫画家ならではの発想だと思うから、小説の形式でのミステリを読んでる人には新しい視界が開けるかも。
駕籠真太郎が描いたからバカミス扱いされてるけど島田荘司が書いたら大傑作になっていた可能性すらあるんじゃねぇの。
解決編を読み終わった今だから全編通して楽しい茶番に読めるのだけれど、初見では普通に怖くて、「あれ、ミステリって聞いてたんだけどホラーだったか?」と巷の評を疑ってしまうところまでミスリードさせられるのでさすがです。駕籠さんたぶん普通に怖い話、とか普通にいい話とかも描けないわけではないんだろうなぁ(絶対に描かないという意味では描けないんだろうけど)。
表題作以外のクソ茶番も素敵です。こっちの方が私の知ってる駕籠真太郎です。
表紙にめげずにレジに持って行った甲斐のある漫画でした!
美しき緑の星 あるいはプッチ神父の天国
「美しき緑の星」とかいうなんか異様な雰囲気を放つ映画を見つけたので見ました!
なにやらこの映画を見ることで”切断”され、大いなる目覚めに至ることができるのだとか。
はぁ。
あらすじ!
この星は地球よりも文明が進んでおり、貨幣制度はなく、機械の一つもない。みんなで作った食べ物や刃物を必要なだけ配給し、幸福で豊かな生活をしているのでした。そんな星から地球に、一人の女性が派遣されたのです。
あらすじ終わり!
この映画では派遣宇宙人ミラが全編通して現代の先進諸国で見られるような価値観、習慣、等をかたっぱしから古臭い偏った考えとして否定していき、正しい生き方、考え方を人々に伝えていきます。その考え方は実にシンプルかつ、本質をついており、その素直さが人々の胸を打つのです。
ミラたち宇宙人は基本的には地球の人々と変わらないのですが、物質的な文明を持たない分、「人間の中に眠る秘められた不思議な力」みたいなのが覚醒しており、パッと言語を習得したり、泡みたいなやつで地球に移動したり、テレパシーで話すことや、”切断”だって思いのままなのです。
”切断”っていうのがこの映画の楽しい要素の1つなんですけど、「”切断”って何?」っていうことをいまいちちゃんと説明してくれないので、言語化が難しいのですが。思うに、「社会と切れる」みたいなことかなと。
私たちはみんな多かれ少なかれ「自分自身の価値観」でない「世間の価値観」みたいなものを通して物事を見ている部分があると思うんですよ。”切断”というのはその「世間の価値観」から解放されるということ。
「世間の価値観」と「自分自身の価値観」は全然違うっていうのを言うために「子供のころは虫とか平気で触れたけど、大人になってからは気持ち悪くて触れない」という現象についての考察を述べますね。
私らって子供のころは虫とか触れたじゃないですか。あれって子供は社会を持たないからだと思うんですよね。社会を持たない子供としては何も考えず面白生物として虫を見たり触ったりしていたのに、年を経て社会に取り込まれてみると「虫キモイー!」「虫キモイー!」という人たちが周りに溢れてくるではありませんか。そんな社会の有り様を目の当たりにして子供は思うのです。そうか!虫はキモイのか!言われてみればそうだわ!キモイわ!「虫キモイー!」
べつにこれは一例に過ぎなくて、他にもいろいろある。むしろ「自分自身の価値観」よりも「世間の価値観」で判断している割合の方が多いんじゃないかと思ってる。
何はともあれ、たぶん”切断”されると虫は触れるようになる。
”切断”によって社会と切れることで物事をニュートラルな視点で見た結果、木とか自然が素晴らしく見えたり、俗世間に失望したりする。たぶん。
そういう考え方って間違ってないとは思うし、その境地にいたることを素晴らしいと思う人もいるのだろうけれど、私としては「美しき緑の星」の住人は素直にキモイと思った。
エコブームってあったじゃないですか。
あれって、節電だ!とか、廃棄物が少ないやつだ、とか、クールビズだ!そのためにいろんなものを我慢しろ!エコ技術を磨け!とか言ってるけど、ゆうて廃棄物もCO2も出るし、化石燃料は減っていく一方じゃないですか。えー?ちゃんと地球にやさしい生活をしたいんだったらー、最終的にはみんなして原始人みたいな生活に戻るしかなくねー。
みたいなことを誰でも考えると思うんですけど、それを実践したのがおそらく「美しき緑の星」の人々なんです。
「そりゃあ、間違っちゃあいねぇが、どうなんだい?」って言われがちかと思うんですけど私別にいいと思うんですよ。
考え方はいいと思うんですけどねー。好きですよ極論。その極論を実践してくる行動力にも、結果的にうまくいってるってことにも(創作とはいえ)感服でございますよ。
それなのに何がキモイって、
「緑の星」の住人って、「自分たちは100%完全に正しい」と思っているところなんです。
「緑の星」に比べて歴史が遅れている地球は、自分たちの星とおなじ歴史をたどるべきでありそれしか幸福に至る道はないと、心の底から思っているのが(映画なので演技ですが)ありありと伝わってくるのです。
キモイですねー。多様性を認めないってやつですねー。
キンザザでいう所のアルファ星の住人はきっとこんな感じな気がするわー。
それか、テレビで裸族のウルルンをやってるのを見て「服を着ないなんてかわいそう!」とか言い出す類のエゴ、あるいはプッチ神父の天国。って感じかしら。
(別に製作者がキモイってことはなくて、元々この映画って製作者の意図としても「頭のおかしいキモ宇宙人による地球大冒険」みたいな趣旨で作られてる気もするんだけれど誤解かしら)
おすすめのシーンは、”切断”オーケストラです。
あのシーンのなにが素晴らしいって、おそらく”切断”されてないソリストが、”切断”された団員に負けず劣らず、完璧に合わせているところです。何たるアンサンブル力(りょく)!マジ狂ってること甚だしいのだけれど、あれは、「音楽」ですよ。「真面目に」音楽をやっている人には是非見てほしいです。あー、あんなんやってみたいわー。
そんなこんなで、私としては大いなる目覚めに至ることは出来なかったけれど、「美しき緑の星」は今となっては(というか昔から?)珍しい、「世間の価値観」に媚びず!退かず!省みない!超弩級キモ映画として大いに楽しめました。こんなキモイ映画は「毒にも薬にもならない映画」の100倍見る価値があります。きっと、毒か薬になりますよ!
この世界に数多ある 不思議惑星キン・ザ・ザ
最近私ちょっと入力過多になっているようなところがありまして、自分の頭の中をあまりちゃんと整理できていないのですが、現状がなかなか特殊なので今の状態で記事を書いてみるというのも面白いかと思ってキーボードを叩き始めるのです。
内容としては一応「不思議惑星キン・ザ・ザ」の感想になります。
入力過多な現状というのは、
カバンの中に忍ばせたソローキンの「青い脂」をあいた時間に読みつつ、パソコンには途中まで再生された「不思議惑星キン・ザ・ザ」。この状態で大学オーケストラのOB、コントラバス奏者として演奏会に参加し、1晩打ち上げで飲み明かし、現役の子たちの演奏会苦労話を聞いて、すげぇ青春!とか思いながら電車でソローキンを読みながら帰宅。途中まで見た「キンザザ」を最後まで鑑賞。←今ココ
「キンザザ」のあらすじ!
マシコフさんが買い物に出かけるとゲデバン君がやってきて「あそこに自分は宇宙人だっていう人がいる」などと申す。その人は靴下を履いておらず、哀れに思い話しかけると空間転移装置なるチャチな玩具を見せてやはり自分は宇宙人だという。あほかと思いつつ玩具に触れるとマシコフさんとゲデバン君は謎の砂漠にパッと移動させられてしまいます。クー!2人は訳の分からない世界から地球に帰還すべく奮闘するのでした。
あらすじ終わり!
20世紀の傑作映画の1つに数えられている(1部地域で)映画とは思えぬただならぬチープ感が何故か癖になる、よくわからないのだけれど一周回って結構楽しいような気もする、よくわからないけれど当時の社会情勢に対する鋭いかもしれない皮肉が込められていたような気もするけどよくわからない。
みたいな感じでよくわからないけれどたぶん結構楽しみました。本当に。
マシコフさんの慢心、ゲデバン君の無能、いろんな意味で汚い現地人、謎判定な人種差別に理不尽な権力者など、イライラ指数の高そうな題材を共産主義国一流のギャグセンスで笑い飛ばします。
機械が緑に光ったからお前はパッツ人、俺はオレンジだからチャトル人、ここではチャトル人の方が偉い。音楽は檻の中で奏でるもの。エツィロップには「クー!」をしろ。マッチはえらい高価なもんだ。
などの謎文化が滑稽です。最初は高慢な態度を崩さず絶対に「クー!」(頬パンパン、がに股)なんてやらなかったマシコフさんが、後半では条件反射的に「クー!」をやる屈しっぷりとか、意外と友情に熱い所とか素敵です。
当時の社会情勢とか、国民性みたいなものに明るいと、いろんなバックグラウンドが想像されてまた違った見方もできるのだろうけれど、別にそうじゃなくても何となく楽しいからいいね。
宇宙的ロマン について
安っぽさや嘘くささが目立つ「キンザザ」なんですけれども、それでいて意外とSFの醍醐味でもある宇宙とか未来的ロマンを感じることができるから不思議です。
これ、なんでかなって考えたんですけど、
むしろ設定が謎過ぎて大体のことアウトオブ想定、一応SFらしいのだけれど「全くそれっぽくないから」なのではなかろうかと思ったのです。
だってたとえば宇宙人がいたとして、そいつらが地球人と同じような常識や文化を持って動いているわけはないし、その常識や文化が私のごとき一般市民の想像の範疇に収まるわけがないじゃないですか。(また、「それっぽい」と思える=想定の範囲内ともいえます)
だから他の星に行ってしまったという時点で、「訳が分からない」ことこそが「自然」になって、「それっぽくない」ことが逆に「それっぽい」と思えるのかなと。
あとですねー。この映画を見てると
キンザザ的不思議空間って意外と日常のいたるところにあるかもしれない
って思えてくるからこれはロマンですね。
冒頭の唐突過ぎるワープとかまさにそんな感じで、見た瞬間は「あほだー!」って爆笑するんだけれど、見終わるころには「もしかしたらキンザザへの入り口は自分のすぐ近くにもあるのかもしれない」なんてことを思ってるんです。(別に、ブリュク星には行きたくないけれど)
明日仕事に行きたくない人や、学校に行きたくないみんなにとってこれってなかなかの希望なんではないでしょうか。
しかしながら
これってきっと、なにも宇宙まで行かなくっていいし、超常的な力に頼る必要もなくて、ちょっと普段とは違った行動をしてみたら全く新しい世界が開けるなんてことはざらにある話だと思うのです。
例えば私などは大学でオーケストラを始めたときには新しい世界を開いた感覚があったんです。聞こえる音楽も部の風習も最初は何もかもが新鮮でなかなかなじめないことや戸惑うこともあったけれどなんだかんだ楽しかったような覚えがあります。
きっと大多数の人にとってはオーケストラなんてのは未知の世界であり、未知であるならばオーケストラの団員のあいさつは「クー!」である可能性を否定できるはずもなく、そうであるならば「キンザザ」もオーケストラも、知らない人にとっては似たようなものであるのではないでしょうか。
オーケストラに限らず「キンザザ」はどこにでもあると思うのです。
それは変な宗教かもしれないし変な部活かもしれないし、変な友人かもしれないし、変な本、変な音楽、変な映画、変な運動、なんでもです。
それらは端から見れば気持ちの悪いものかもしれませんがやってる側は結構楽しいものなのだと思います。
オーケストラなんかは割とハードル高めな感もあるのでもっと手軽なところから始めてみるのもいいんじゃないでしょうか。
そうですね例えば、
「不思議惑星キン・ザ・ザ」を見るとか。
ゲロまみれの他人=自分からのメッセージ メメント
クリストファー・ノーラン!聞いたことある!と思って、
メメントを見ました!
でもよく考えたら聞いたことあったのはクリストファー・ノーランではなく、
エドワード・ノートン(ファイトクラブなどに出演)でした!どうでもいい勘違い!
あらすじ!
記憶が数分しかもたないよ!
あらすじ終わり!
メメントねー。メメントモリ、「死を想え」かなーと思ってよく調べたら、「メメント」はラテン語で「思い出せ」みたいに訳すことができるみたい。あー「memory」とかその辺の派生なのかしら。
この映画、ジョジョ6部、ミューミュー看守の話の元ネタらしくて、荒木先生は割とそのまんま拝借しているようだけれど意外と、どちらを先に見たから後に見た方を楽しめないー、みたいなのはなさそう。
あとは博士の愛した数式とかを思い出すのもしょうがないですよね。
この映画!構成が恐ろしく独特で実際何が起こってどうなったかっていうのがひどく分かりにくい(でもちゃんと何度も見て考えれば分かるはず)ことになっているんですよ!
例えばですねー。ちゃんと時系列順に物語が進む映画がですね、10個のチャプターに分かれてたとします。この映画の編集がトチ狂ってチャプター10、1、9、2、8、3、7、4、6、5という順番に並べ替えて上映したのがメメントです。混乱するでしょう。
結末、過去、結末のちょっと前、過去のちょっと後、とシーンが切り替わっていき、終盤では何となく見方が掴めてきますが、最初はそのルールも分かっていないため何が起こっているのか分かったもんじゃありませんよ。
物語を引っ張るのは主人公の体中に刻まれた記録、写真や写真に対するコメントですよね。「奴の嘘を信じるな」とか主人公がそれを書いたはずなのだけれど、どういう経緯で書いたのか本人も覚えていないのだからもう何を信じていいのやら。
そう、思うにこの主人公にとっては「過去の自分」と「未来の自分」が明確に「他人」なんですよね。
「記憶がなくなる」っていう現象に出くわすことはそんなにないんだけれどなくはなくて、要は酒を飲み過ぎたときとかね。
翌日になって聞かされる「お前、糞尿とゲロを垂れ流しながら地面に這いつくばって死ねぇ、死ねぇ、殺す、殺すぅ、って譫言のように繰り返してたよ」という現実。
記憶のない間に俺の体を動かしているお前は誰なんだ?って凄く不思議に思ったことがあります。甚だ迷惑な話ではあるのですが記憶がなくなったときって自分が周りに迷惑をかけた感覚が薄いんですよね。他人が何かやらかしたらしいって感覚で。
(とはいえめちゃくちゃ謝るんですけどね)
だから「過去の自分」と「未来の自分」を自分たらしめているものってきっと記憶なんですよね。メメントの「数分で記憶がなくなる状態」っていうのはきっと、他人から状況を受け渡されて他人に状況を渡す状態なんじゃないかしら。こわっ。
(そんな状態でよくこの主人公は自信満々で自分のメモを信じられるな、とは思ったけど、自分が脆弱だからこそ本当の他人よりは過去の自分を信じるのかなー)
もうちょっと条件を緩くして考えると過去と未来の自分が他人にしか思えない瞬間っていうのは普段の生活でも結構あると思います。
中二病ポエムを書いていた自分、とか、あまりに初歩的なミスを犯す自分、とか、後で見た時に詳細を思い出せる程度にメモしたはずなのに全く思い出せない、とか、好きだと思ってたものがよく考えるとそれほどでもないってことに気付いたりとか。
あとは、過去の自分の書いたブログの記事とかを読み返してみると普通に「ナニイッテンダコイツ」ってなる、っていうのもそうですね。
日々を適当に生き過ぎているからこんなことが起こるのかもしれないけれど結構気持ち悪い状態ですね。もう少しリニアに整合性のある生活ができないものでしょうか。無理ですか。そうですか。
えー。なんか自信がなくなってきたのでこの辺で終わりますか。
「メメント」は自分の成り立ちの不確かさに言い知れぬ不安を覚えるいい映画でした!最後に自分への信頼度を試すクソみたいな問いかけでもして終わりましょう。
では。
記憶をなくした飲み会の翌日
「お前、糞尿とゲロを垂れ流しながら地面に這いつくばって死ねぇ、死ねぇ、殺す、殺すぅ、って譫言のように繰り返してたよ」
と語る友人と
「奴の嘘を信じるな」
といういつの間にか身体に刻まれた言葉
どちらを信じます?