世界の限界を超えるための 論理哲学論考
「素晴らしき日々」をクリア後に読みかけて挫折してしばらく積んであった「論理哲学論考」を遂に読み終わったので、それについて書きますよー。
- 作者: ウィトゲンシュタイン,野矢茂樹
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2003/08/20
- メディア: 文庫
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まず、私のこの本の理解度は正直低いってことだけは先に断っておきます。
その上で、分かったような気になれた部分について、私の解釈と、拡大解釈と、誤解と、ただの私の話なんかを書けたらいいなー。
この本は何を書いたかっていうと
自分の思考や、自分の世界の限界≒自分の想像できる範囲、表現できうる範囲を明確にして、それ以上は踏み込まないようにしましょうねー、みたいなこと。
世界の限界に線を引くためこの本では、個人や人類が知り得る要素を「a」だの「b」だのと、操作を「R」だのと一般化し、あーだこーだと論理をこねくり回すことによって、既存の材料で導き出すことのできる限界を規定します。
そして
「語りえぬものについては、沈黙せねばならない。」
その限界を規定する過程が偏執的にややこしくて、なんというか、山を語るために砂粒の定義から始めるような徹底ぶり。「山は大量の砂粒が積もった場所」ってくらいだったらまだいいのだけど、「山は高く隆起した土地であり大量の砂粒と水と木と生物たちが相互に作用しあって生態系を形成している。ここでの相互作用とは・・・」っていうレベルになってくるのでもうついていけない。分かるところだけ分かるという感じ。
執拗に定義と関連付けを繰り返していく感じとか、命題が”真”だの”偽”だのっていう論理展開は2進数ちっくでプログラミングとかなら近いのかなーと思います。
有限要素解析みたいな考え方とか、ニュートン力学とかの話も出てくるから、理系の人の方が理解しやすいのかも。
で、
世界の限界、「語りえぬもの」のことについての線引きできると何が嬉しいの?ってことを考え出すと楽しくなってきます。
そもそもウィトゲンシュタインさんにはこんなややこしい内容を本に纏めてまで「語りえぬものについては沈黙しなければならない」って言わずにはいられない理由があったんじゃないかと思ったり。それってきっと偉大な諸先輩方が語りえぬ内容を無理に語ろうとして終わらぬ議論を続けてるのが煩わしくて、偉大な知性が無駄に浪費されていくのが悲しくて、「うるせぇ黙れよ」って言いたくなったんじゃないかなーとか妄想して、パンク!素敵!とか思っちゃいます。
(これは完全に語りえぬ範疇の話だけど)
妄想以外にも、世界の限界を見極められるとちゃんといろいろ便利なんです。
なんというか、四捨五入の概念の発明?というか分数の概念の導入?
今までは「10÷3=3.33333333333333333333333333・・・・・・・」だったのが、「10÷3=3.33 (小数点3桁以下四捨五入)」とか「10÷3=10/3」で許される世界!
(「10÷3=10/3」て、なんてトートロジー!)
要は、「終わらない議論」が終わるんです。
「わからないもの」はわからないって言いきれます。
このわからないものって言うのも、「相対的にわからない」場合と「絶対的にわからない」場合が あると思うんですけど、
「相対的にわからない」ことって、例えば、「今日のモスクワの天気」とか。現地の人に聞いたりネットで調べたり、分かる方法はあるんだろうけど「私は知らん」案件。
「絶対的にわからない」ことは、例えば「宇宙の外側」とか「死後の世界」とか「他人の気持ち」とか、もーマジ無理、絶対絶望絶好調案件。
世界の限界の線引きができると「相対的にわからないもの」は分かるための材料が揃うまで保留にできるし、「絶対的にわからないもの」については考えなくてよくなります。それってかなり楽だし、実のあることに全精力を傾けることができることになるので、すごく前向きって気がします。
えー、生きとし生ける者の悩みってのは基本的には、「自分の世界と他人の世界」の不整合から来るものだと思っていて、「自分ではどう考えても”こう”あるべきはずなのに、実際そうでない」ことにより生じるフラストレーションに心と身体を蝕まれ、たまには死ぬこともある。
「論理哲学論考」を読んだところでフラストレーションが消えるわけではないけど「自分の世界」と「他人の世界」が別物であることが認識できれば少しは諦めがつくというもの。永遠に許さないけど諦めはつく。それで整合性がとれる。
すいません、もう少し楽しい話をしましょう。
思考の限界≒世界の限界に線を引くことができると、「私の世界」に関しては、限界を超えるためのアプローチについていろいろ考えられる気がします。
簡単なようで難しい、もしくは、難しいようで簡単な方法なのだけど、それってつまり「世界の外側」を探すこと。
「人は見たいものしか見ない」っていう性質があって、「自分の世界」の外側にあるものは認識できないんです。すぐそこにあって、網膜には像として確実に映り込んでいてもそれが認識できず、無意識の闇に消えるのみってことはよくあることです。
「行きつけの本屋さんのことを完全に知り尽くしている気でいたのに、実は1度も入ったことのないコーナーが結構あった」みたいな。自分がよく買う幻想文学のコーナーだけ覗いて本屋の全てを知った気になっていたけど、BLのコーナーが存在することすら知らなかった、と言うことはよくあることです。
(本屋さんで巡回する範囲を調べると、自分の世界の大きさを測るバロメータになるかも、とか今思った。狭すぎて愕然とするけど。)
だから、世界の限界を超える方法があるとすれば、それは、「本屋さんに行って、自分が入ったことがないコーナーから適当に本を買う(寓意)」ことなんじゃないかなー。
興味がない本買ったって無駄じゃん、ってなるかもしれませんが、その通りで既存の自分の価値観では無駄に思えるものだからこそ、それまでの自分の世界になかったものか書かれているんじゃないかと思います。
(まぁ、ちょっとぐらいは自分の世界と被ってる部分がないと、そもそも「読めない」って事態にもなり得るけど。それはそれで一旦保留にするのもありだし。)
そんなことをしていると稀に、訳が分からないのだけど何か凄いもの。確かに凄いのに訳が分からないから凄い!やばい!としか言えないものに出会うことがあって、それって神秘だなーって思います。
「サド」の本とかを読んで、やってることは醜悪そのもののはずなのに、なぜか美しさを感じるのって、きっとそこに神秘があるからだ。
ドールを可愛いと感じるのもそこに神秘があるからだ。
12音とリズムの組み合わせでしかないはずの音楽の旋律に対して、美しいと感じることがあるのも神秘です。
これからも沢山の神秘に出会えますように。
ED 大森靖子ちゃん 「draw (A) drow」
(大森さんはウィトゲンシュタインみたいに体系的ではないんだろうけど、感覚的には論理哲学論考を正確に理解してそうだからやばいよなー)
お願いだから救われてください フラテルニテ
clockupのエロゲ、フラテルニテをプレイしましたよー。
euphoriaのメーカーだし、↓このキービジュアルが衝撃的過ぎてずっとやりたかったエロゲです。
予想通り期待以上に最悪(いい意味で)な物語だったので、感想やその他諸々を書きたいと思います。
あらすじ!(公式まま)
強姦された少女は救いを求め、
家族と共に新しい街に移住する。
姉のために移住した街でとある少女に出会い、
仄かな恋の予感を覚えた少年は、怪しげな団体に属する少女と姉を救いたいと願う。
過酷な現実からの救いを求める少女達と、そんな彼女たちを救いたいと願う人々。
同じ救いを目指しながら、
両者の思いはすれ違い、
交わることなく、
救済という名の悲劇を生んでいく
あらすじ終わり!以下ネタバレ含みます。
OP. Blanky Jet City 「ディズニーランドへ」
(個人的に「友愛クラブ」にハマった人の盲目的な信仰具合は、ディズニー狂いの人のそれ近い気がします。)
フラテルニテでは、救いを求めて「友愛クラブ」に集ったはずの少年少女が、ヤッたりヤられたり、いろんなものを入れたり出したり、食べたり飲んだりした挙句に、切り取ったり切り取られたり、切り開かれたり、はじけ飛んだりもするので、
「救いなんてない」のキャッチの通り本当に救いのないストーリーであることは間違いないはずなのだけど、、、本当にそうなのかなぁ、と一抹のモヤモヤ感を残すいいエロゲでした。
っていうのも、確かに事実だけで言えば、将来ある若者達がオッサン共の慰みものにされて、使うだけ使われた挙句にえげつない方法で死んでいくだけなので、明らかに悲劇なのだけど、当の本人たちは本当に羨ましいくらい最期まで幸せそうで、
実は、「やっぱり救いなんてなかったんや・・・」とか言ってる自分の方が間違っていて、あの子たちはみんなちゃんと救われてたようにも思えるから。
そこのジレンマを、どちらかに偏ることなく、どちらにも説得力を持って描く手腕は流石です。
チンポの右左から実の姉と妹にフェラされるシーンがあるんですけど、やってることはあまりにインモラルなのに、姉妹は心の底から楽しんでて幸せなのがすごくよく伝わってくるし、しゃぶられてる側の主人公はそちら側に行けずになんか冷めてるけど、姉妹があんまり楽しそうだからこれも一つの幸福な家庭の姿なのでは?みたいなことを考えてしまったり、幸福が不幸をレイプしてるみたいで好きなシーンです。
「アンナカレーニナ」の冒頭でこんなことが言われているそうです。(未読なので文脈はわかりませんが)
「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。」
フラテルニテだと、
「似たような幸福な家庭もそれぞれに不幸で、それぞれに不幸な家庭も似たように幸福である」
みたいな、何かわかったような何もわかってないような気持ちになって、この中途半端な感じに哲学の余地が残されてる気がして楽しいです。
好きなヒロインは神村さんと、菱木さんです。(みんなすきだけどね、本当に。)
菱木さん← →神村さん
この2人はなんというか、他の人よりも物事の本当のところが見えていて、それゆえに冷めてしまってうまく幸せになれない感じに共感できてつらいです。好き。
園田亡き後で菱木さんが神村さんと一緒に「友愛クラブ」の運営側に回っていたのもそのあたりの感覚が近かったから、神村さんが招き入れたかなぁと。
菱木紗英子
菱木さんは元々はぜーんぜん不幸な境遇なんかではなくて、本来だったらたぶん何不自由なく日々を送っていける娘なんですけど、ちょっとばかり頭がよかったが故に「普通の幸せ」みたいなものが纏っている欺瞞が見えてしまって、そんなんじゃあ満足できなくなってしまった娘ってイメージです。
既知のものでは満足せずに、未知なる高み(あるいはどん底)を、更なる快楽(あるいは苦痛)を求めて、行為をエスカレートさせていく姿は「悪徳の栄え」のジュリエットのようで、めちゃくちゃ汚くてうんこまみれなのに本当に格好いいです。「堕落論」なんかも通じるところがあるかなー。
バッドエンドは薬漬けになって思考力を失った結果、クラブの他の人と同じような幸福を手に入れて終わってしまったような感じがあるからあまり好みではなかったですけどねー、でも幸せそうだったから別によかったのかなぁ。(死んだのだから良くはないのだけど)やっぱり思考力を手放した方が幸せになれるんだろうか。私的にそれはなんか違うんだけど。
トゥルーエンドは薬に頼ることなく奔放な淫蕩生活を楽しんでいるようでちょっと安心しました。クラブの他の人たちはクラブが崩壊したら自殺してしまうか世間に狂人扱いされた挙句に死んでしまいそうな人たちばかりなので、菱木さんはクラブ崩壊後もどうやってでも生きていけそうで、もしかしたら思考停止でない本当の救いに至ることもできる気がして好きです。続編があったら(絶対ないけど)女王とかになってそう。
神村愛
神村さんは最低な両親のもとに生まれ幼少期から想像を絶する虐待を受け続けてきた不幸すぎる女の子で、大きくなって「友愛クラブ」の黒幕になった娘です。小さい頃の虐待シーンはマジで「やったねたえちゃん」のトラウマが大幅に塗り替えられるレベルなのでかなりきついです。
クラブの運営の方は表面的には「生きるため」にやってたことなんだろうけど、神村さんもクラブの他の人と同じように「救い」を求めていろいろと試行錯誤した結果なんですよね。
神村さんって死ぬギリギリの酷いプレイを幼少期に幼少期にやりつくされてて、同じことをクラブの人に(特に円夏に)やってるって気がします。
それは別に八つ当たりとかではなくて、なぜかそれで救われる人たちがいるから。
自分があんなに苦しくて嫌で仕方なかったのと同じことをされてるのに「救われたー」とか言って嬉々として命さえも投げだすクラブの人たちを見つめながら、そちら側に行く方法や、何か他の選択肢を探しているように見えました。
えー。フラテルニテをやってて思ったんですけど、ある人間のことを完全に自分の思い通りに動かすことができるとき、その相手のことがただの「道具」に見えてしまうんじゃないかなって。神村さんもだけど、女の子たちを嬲りものにして適当に捨てるおっさんたちもそんなところある。
(余談。ウチの会社の社長とか社員をそんな感じで見てるんだろうなー。余談終わり)
クラブの人たちを陥落させることに慣れてしまって、大体の人を自分の思うがままに操ることのできる神村さんにとって、最後まで快楽堕ちすることなく自分のことを「救いたい」と言った白坂君は唯一好意を抱くことのできる人間であり、やっと見つけた新しい選択肢だったんじゃないでしょうか。
不幸のどん底にいた少女が救われるための兆しをやっと見つけることができた。私にはそう見えたし、そうなって欲しかったです。
でもそうはならなかった。
神村さんは、多くの人を不幸にして殺してきた自分は救われてはいけないと言いほぼ自殺に近いような方法で凄惨な死を遂げます。神村さん・・・嫌だ・・・。嫌だ。
つらい。本当に救われて欲しかった娘なので本当につらい。
エンディング後のモノローグで
「私を救うと言ってくれて
普通の女の子のように抱いてくれて、
嬉しかった。」
って言ってるけど、知るかよー!これは私のエゴだけど知るかよー!
一瞬だけ救われて満足しないでもっとちゃんと救われてよー!
エロ以外にも楽しいことは沢山あるんだからいろいろ探っていこうよー!
あー・・・。
ということで、本気で意気消沈できる本当に素晴らしいエロゲでした。
ストーリーの話ばかりしましたけど、こう見えてかなり抜けますし。
私はできるだけ登場人物に没入したいタイプなので、いろいろと試してみたこともあって、フェラシーンで一緒に指をシャブってみたら意外と幸せな気持ちになったり、うんこたべるシーンの後でビーフシチューを食べたら普通に気持ち悪くなったり、たくさん新しい感情を発見することができる最高の作品です。
ありがとう。クロックアップ。
(オナニー小僧とフラテルニテ)
ED「仰げば尊し」
少女を解体する気持ちで 「匣の中の娘」を作ろう
前回の記事で、初めてドールをお迎えしたことについて書きまして、
最近はツイッターとかに上がっているドール写真をちょくちょく見てるんですけど、野外での写真がとても素敵なのが多くて、この娘も外に連れ出したいなーとか思ったんですけど、そのためには何らかのケースが必要になるわけでありまして、今回はドール用の箱でも作ろうって話です。
ゆうてこういうのは既製品を買った方が楽だし、丈夫で便利で格好いいのが手に入るんですけど、ちょっといろいろ思う所がありまして。
(今は狭い世界に暮らしています)
えー、私って、読書の原体験がおそらく「魍魎の匣」なんですよね。
10代の頃に読んで以来、”なんだか酷く、男が羨ましくなってしまった”ままで今に至っていて、 雨宮さんのいる彼岸への憧れがずっと尾を引いているんです。
「ない」モノへの憧れが消えないってのはもう、ほとんど”魍魎に憑りつかれている”ようなもんでございまして、絶対に叶わぬ恋に焦がれるようで、なんとも歯痒いというか、もどかしいというか。
こういうのを放置しておくと、自分の中で理想化された「箱の中の娘」の妄想が、日々を重ねるごとに肥大化していって終には凶行に走る、なんてこともないとは言い切れないのです。
そんなアブナイ妄想を燻ぶらせていた私が今回、完璧と言っていいくらいに美しい娘を手に入れて、しかも移動のための入れ物が必要ということとなれば、これはもう、妄想を成就させる時が来たってやつですよ。
(ウチの娘にはニキビはありません)
私が箱に求める機能は以下の通りです。
・丈夫であること
・美しいこと
・少女を”みっしり”と詰め込むことができる四角い形状であること
・列車の向かいの席でうとうとしてる書生さんに中身を見せやすいこと
っつーわけで、作りましたよー。いえー。
ヒノキで作った木箱にベージュ色の豚革を張っています。(ヒノキである意味は特にありません。ほんのりいい香りがします。あと重いです。)一見エレガントな感じなのだけれど、近づいてよく見ると豚の肌の質感が人の皮を連想させて生々しくていい感じです。
作中の記述では、蓋は上下にスライドする方式で箱の開閉をするみたいなのですが、今回は実用を考えて扉方式にしています。
ドールちゃんをバラして上半身だけで運ぶわけではないので、全身が入る大きさです。今回、既製品の木箱もいろいろ探してみて気付いたんですけど、このアス比の箱って、たぶん棺桶くらいしかないんですよね。だからか変な異様さというか、不吉感がある気がします。
(ほう)
あっ
「聴こえましたか」
うふふ
「誰にも云わないでくださいまし」(パカッ)
(ほう、)
ああ、生きてゐる。
何だか酷く男が羨ましくなつてしまつた。
っていうやり取りがしてみたいなー。あーーー。いいなー。
箱の隙間にはクッションを隙間なくみっしりと詰め込むことでドールちゃんがしっかりと固定されて、ある程度振動が加わっても大丈夫な作りになっています。
胸から上は出すようにしているので、向かい側の相手に見せやすくなっており、あと、まつ毛がつぶれたりするのも防げます。開けた瞬間に倒れこんでこないように腰のところと膝のところを鎖で固定しています。
箱の裏地にはピンクの花柄の布を貼って、エレガントな色使いのなかに、彼岸っぽさや、内臓っぽさが混ざるような感じを目指しました。
(狭くて暗くて息苦しいわ)
箱を作ってみた感想として、当初はこのくらいなら、特に難しいことも考えずにちょいちょいっと出来上がると思ってたんですけど、やってみると意外と考えることが多くて楽しい作業でした。
既製品はないのか?0から作らないとダメ?作るなら材質はどうしようか?どこまで100均で用意できる?組み立ては釘でやればいい?留め金はどういう方式にする?実際組もうとしたら切断面が斜めで上手く組めねぇしよ、まっすぐに切るにはどうしたらいい?
革貼りにしたら格好いいかも?じゃあどんな革がいい?ベージュ?それなら裏地は何色なら合うの?革は切ったらやり直しがきかねぇしよ、うわ切るの緊張する。あと、ドールちゃんの固定はどうしようか?
なんか、この「匣の娘」を作り上げるための試行錯誤が、作中で「匣の娘」に魅せられて何人もの少女を解体して試行錯誤した狂人=久保俊公の思考にシンクロしたように思えて、自分の中に他人の狂気が流れ込んでくるような、なかなかにスリリングな体験でした。彼岸の景色が覗けそうな、この感覚は他ではちょっと味わったことがないです。これが魍魎か。
(うへぇ)
あと、おまけで、私「ステーシーズ」の表紙が大好きなんですけど(内容も大好きです)、これも再現できそうだったんで、やってみました。
ウチの娘と箱が可愛すぎて雰囲気にそぐわないことを除けばなかなかいいんじゃないですか?こうして並べてみると元の表紙の娘は太腿とかムチムチに見えますね。むしろウチの娘が華奢なのかな。
ドールちゃんは愛でるだけでも十分いいのに、他の趣味にも波及していくからとても楽しいですね。いいなー。いいなー。
ED サティ「グノシエンヌ第1番」
(孤独で地道な狂気的作業に)
ドールを覗き込むとき、ドールもまたこちらを覗いているのだ (それって、とても嬉しい)
ちょっと前に初めてのドールをお迎えしたのでそれについて書きますよー。
お迎えした子はですねー。DOLLZONEのGillちゃんです。
(超可愛いです)
今回初めてのドールお迎えでしたが、実物はお迎え前に思ってたよりも圧倒的に可愛らしく、マジ驚愕でした。私は結構ひねくれていることを自負しており、「きれいは汚い、汚いはきれい」の精神で生きているつもりだったのですが、初ドールちゃんは「きれいできれい」だし「可愛くて可愛い」し「美しくて美しい」、っていう文句のつけようのない圧倒的な可愛さで、他では得たことのない新しい感情の芽生えがありました。
ドールはいいぞ。
(お前をキャストドールにしてやろうか)
私がドールが気になりだしたのは、前に読んだ、二階堂奥歯さんの「八本脚の蝶」という本の中で人形について語られている部分が多くあって(本に出てきたのはぬいぐるみとか、ビスクドールだけど)、ネットで調べだしたのがきっかけですね。
(この記事の中では人形については触れてないです。)
その前から、四谷シモンさんの本を読んだことがあったり、天野可淡さんとか、恋月姫さんの写真集を立ち読みしたことがあったり人形に興味はあったのだけど、そのあたりのガチなビスクドールは実物を見る機会もないし、値段的にも手が出ないので、自分とは関係のない世界の話だと思ってたんです。
が、なんかネットで調べてみると、キャストドールというのがあって値段的にも全く手が出ないって訳ではないっぽいぞと思い(それでも高いけど) ⇒ 実は行ける範囲内にあった店舗に実物を見に行き(店舗やばい。天使がいっぱいいる) ⇒ 家に帰ってネットで自分の好みの娘を探し(かなり入念に探しました) ⇒ 購入したって訳です。
(サボテンの花も咲きました)
購入までの流れの中で、自分好みの娘を探すって行為が、とても不思議な感触でした。
私はDolkStationで海外製の娘を購入したんですけど。
ここ↓ (メーカーごとの特徴も分からんのでを虱潰しに見ていきました。)
可愛い娘は本当にたくさんいるので、すぐにいくらでも見つかるのだけど、どうにもお迎えに踏み切るまでの決め手が難しくてですね、一番可愛い娘を見つける作業をしていたはずがなんか最終的には自分を見つめる作業になっていた気がします。
(実物の可愛さを写真で再現するのが難しくて、もどかしい)
っていうのも、自分がドールに何を求めているかっていうのが結構掴みづらいのです(私は)。家にドールちゃんがいるっていう状況を考えた時、その娘と私はどういう関係なのか。理想の彼女なのか?やはり可愛い我が子のような存在なのか?それとも、そういうのとは別の何かなのか?(ただし、何らかの理想を投影していることだけは間違いない)
そういうのを突き詰めていったところ、最終的に、私はドールちゃんたちの中に「理想の自分」を探していたのではないか、という結論に達しました。私は美少女になりたかったのです。
これは公式のHPに載っている写真で、この雰囲気を出してた娘って探した限りでは他にいなくて、探し始めから気になってはいたんです。で、重要なのは、私はこの写真から何を読み取っているかってことで、この娘が気になるとしたら、その読み取ったものに原因があるはずなのです。
人が人と対峙する時、相手の見た目からどこまでの情報を読み取るのかってことを考えます。まず「整っているかどうか」、「体格」とか「体調」(この娘はちょっと病的な顔色をしています)、「優しそう」とか「怖そう」とかの性格、あとはこの娘の生い立ちや過去まで読み取っている気がします。当たっている、間違っているに関わらず。
(「優しそう」な娘だったら、きっと温かい家庭で大切に育てられたんだー、とか)
私が公式写真から読み取ったのは、病的な肌、本質を見通す冷徹なジト目、頭身の割にふっくらした幼女みたいなほっぺたから、「こんな目ができるのは相当の読書家で、子供のように好奇心旺盛な乱読派だ。きっと心理学とかも齧ってるに違いない。あと可愛い!」みたいなことです。
(自分でもびっくりするくらいの理想の押しつけだけど、そんなのが許されるのもドールのいいところです。たぶん。)
この娘をそばに置いておけば、現在の私が抱いている志をこの先ずっと失わないでいられる。だから、この娘をウチに迎えたい。たぶんそう思ったのです。
(ウィッグとアイを変えたら一気にパンクお姉さんみたいになります。)
ドールちゃんて、生きてないから特別な経験を経て来ているわけではないし、血も通ってないし、頭ん中Sカンしか入ってないのに、こんなにもいろいろなことを語りかけてくる不思議な存在です。実物を見たことがない人は一度店舗に行って目の当たりにしてくると、必ずなにか新しい発見があるんじゃないでしょうか。
私は、これからこの娘と一緒に酒でも飲みながら、末永く仲良くやっていけたらいいな、と思います。 ねー。
(軽蔑した顔がまた可愛い)
ED オッフェンバック 「ホフマン物語」より「オランピアのアリア」
Patricia JANEČKOVÁ: "Les oiseaux dans la charmille" (Jacques Offenbach - Les contes d' Hoffmann)
八本脚の蝶と透明人間
最近は、少女、女の子、女子、乙女、あとメンヘラさんの思考回路に興味があり、今回は二階堂奥歯さんの「八本脚の蝶」を読みましたよー。
(装丁も素敵です)
この本ですが、
”自分の生きた日数よりも多くの本を読んできた女性編集者の二階堂奥歯さんが、飛び降り自殺によってその生涯を終える直前までWeb上で書き溜めていた日記”
を書籍化したものとなっております。
膨大な読書量に裏打ちされたすげぇ文章力で日々の出来事や葛藤が綴られており、かつ、ブログという形式からか非常に親しみやすい、奥歯さんが近くに感じられるような書き方がされているので、本好きの人ならすぐに奥歯さんのことが好きになってしまうと思います。
読む前から結末だけは知ってしまっているので、読み進めるのが苦しくはありますが、そこは腹を括って最後まで付き合いましょう。それで奥歯さんの絶望を何十分の1でも共有できていたなら嬉しいな。
内容に入りましょう。
この本は「自殺者の手記」でありながら、読み始めてすぐに受ける印象は、聡明で好奇心旺盛な、明るくて、可愛らしい女の子のそれです。
「自殺者の手記」ってなんかもっと、暗ーくてー、陰鬱でー、視野が限りなく狭められているせいで死ぬ以外の選択肢がみつからないー、みたいなのを想像しがちなのですが(そうであって欲しいという願望もある)、奥歯さんの印象は全く逆なんです。
「新しい香水買っちゃった、ウフフ」(意訳)とか
「やったー、ずっと探してた本見つけたー」(意訳)みたいな
嬉しいこと、楽しいことが世の中に溢れているような感じを受けます。
本当に感受性が豊かで、五感をフルに使って世界を感じているのがよく伝わってきて(嗅覚まで刺激してくる文章ってあんまりない)、ページ越しに垣間見える世界はとても鮮やかです。
読書家としての奥歯さんは、読書量、質、共に並外れていて、ちょっと憧れることすらできないくらい遠くに行ってしまっているように感じます。
偏見のない純粋な視点で読んで、感じた世界に、膨大な知識と洗練された思考力で解釈を加えて、自分の世界に組み込んでいくという感じでしょうか。
この「偏見のない純粋な視点」というのが実は結構恐ろしいものな気がして、この目で見ると、たぶん「死ぬこと」すら肯定できるんです。
「死んではいけない」っていうのは、偏見ですから。
奥歯さんは本の序盤から「死ぬこと」に関してはかなり肯定的です。それでも生きていたのは、痛いから、怖いから、あとは大切な人が悲むから、etc。それらの死なない要因と、生きていくことのつらさが天秤の上でふらふらと揺らめいているような状態で、ちょっとバランスを崩せばすぐにでも死んでしまいそうな危うさがあります。
(そして実際にそうなった)
しかも、奥歯さんって、おそらく説得不可能なんです。
余りに思考が明晰で、おそらく考え得る死なない理由を網羅したうえで、論理的な帰結として死を選んでいるから、本当に何も言えない。
強いて言えるとしたら、「私はあなたに死んでほしくない」ということだけなのだけれど、それでも死ぬって言われたらもうどうしようもない。縛り付けておくとか、物理的な方法しかないって気がします。
で、そういう思考になってしまったのはやはり読書が原因なのだと思います。
っつーて奥歯さんが読んでたのが有害図書だったって訳ではなくて(むしろ八本脚の蝶で紹介されているのは私が思うに良質なものばかり)、読書という行為そのものの効用?みたいな感じで、効用って呼ぶからには基本的にはいい効果をもたらすもののはずなのです。そのへんちょっとちゃんと書きます。
まずは、「基本的に人は見たいものしか見えない」ってことについてです。
例えば、車に興味がなく、かつ現状車を必要としない人は、普段道で車を目にしても、漠然と「車」としてしか認識せず「大きい車」「小さい車」「高そうな車」くらいの分類で済ませて、それ以上の認識をしないっていう場合が多いんじゃないかと思います。
この人が、日常の足として車を手に入れようという段になると、その先の認識をするようになります。車種によって、燃費が機能が云々とかを調べて、道で見かける車を「どこ」のメーカーの「何々」で燃費がいいらしい、くらいに認識するかもしれません。
車を手に入れた後は、自分のと同じ車を見つけると「おっ!」ってなったりするんじゃないでしょうか。
この人は当初、未来に自分のものになる車を見ても「車」以上の認識をせず、例えば後から「どこそこの何々車を見かけたねー」みたいな話をしても「なんのこっちゃ」となるわけですが、車を手に入れた後だったら「そうねー、最近よく見るのよー」くらいの状態にはなるかもしれません。
このように、その人の知識や興味のレベルによって世界の見え方っていうのは変化するもので、物理的には「見えている」(網膜に映っている)のだけれど「見えていない」(認識していない)ものっていうのは実際かなりあるのだと思います。
(ルールを知らない、やったことない人に野球とか将棋とかの面白さが伝わらないー、とかも同じような理屈)
で、そういう「見えなかった」(認識できなかった)部分を「見える」(認識できる)ようにする効果みたいなのが、読書にはあるのだと思います。
っていうのも、言語(絵とか写真、音楽とかも)によって表現されるのはその作者によって「認識された世界」そのものでしかなく、(認識できていないものは書けない)読書っていうのは記述された作者の認識を読む行為であるので。これはフィクション、ノンフィクションに限らずそう。
読むことにより作者の目を通して認識された世界は、ゆうて疑似的なものでしかなく、物理的刺激を伴わない分完全ではないのだけれど、現実世界でも実物を認識するための下地になります。
本の中で登場した車を、「あぁ、これね。」と道で一度確認することにより、それ以降はもう完全に認識できるようになります。
つまり、読書とフィールドワークを重ねることで、認識される世界の解像度はどんどんと上がっていくということになるわけです。
(ただし、読む本が偏り過ぎている場合はその範疇ではない)
読書って、光源を集める作業、みたいなイメージ。
集めた光源が赤色光に偏重したりすると、世界が本来の色に見えなったりする場合もあるのだけれど、更に光を集めて、青、緑を重ねることによって、本来の極彩色の世界を透明な光で照らしだすことができる。
光を集めるほど視界がクリアになって、より細かく、より遠くまで見通すことができる。鮮やかで、綺麗で、面白いものをたくさん見つけることができる。楽しい。
では何故死ななければならなかったのか。
ってことを考えると、やはりいろんなものが見えすぎて困るってことはあるのではないでしょうか。
見えすぎて困るもの、それは思うに、世の中で暗黙の了解とされているいろいろの無根拠とかな気がします。
公的に言われる
○○しなければならない。
○○するのが普通。
みたいな言葉を、もう少し踏み込んで考えると、大体において何の根拠もなくなってしまうのです。で、無根拠に何かを強いられるのって物凄い苦痛なんです。それは「生きなければならない」っていうのすらそう。
例えば、
物凄い長時間労働を強いられる ⇒ 仕事だからしょうがない。やるしかない。
ここで思考停止できれば身体を壊さなければたぶん頑張れる。
物凄い長時間労働を強いられる ⇒ 仕事だからしょうがないか。本当にそうか。 ⇒ そもそもなんで仕事してんだい? ⇒ 人生を豊かにするため。幸福であるため ⇒ じゃあ仕事頑張れば幸せになれる? ⇒ 頑張って働いてお金を稼いでも、それを使う暇もない。仕事が減る気配もない。 ⇒ じゃあなんで仕事するんだい? ⇒ (沈黙)
ここまで考えてしまうともうダメ。仕事をするのが苦痛でしょうがないのです。
(本当はまだいろいろと分岐はあるけどゴールはほぼ一定なので省略)
奥歯さんは自分に「生きなきゃならない」と思わせてくれるような「絶対的な根拠」を本の中に必死で探していた人のように思います。
物語の光で世界を照らして、より細かく、より鮮明に、より遠くまで見つめても見つからなくて、果てはX線や放射線まで持ち出して、いろんなものを透かして見てもどうしても見つからなかったから、終には自分の集めた光で自分自身が透明になってしまったような人。
透明人間になってしまった奥歯さんとはもう話すことは出来ないけど、「八本脚の蝶」を開けば、透明な奥歯さんの体を透かして奥歯さんの見ていた世界を少しだけ見ることができる。
鮮やかで、とても綺麗です。
ED 東京事変「透明人間」
君の戦い方 「素晴らしき日々~不連続存在~」 教えて
「素晴らしき日々~不連続存在~」をフルコンしましたのでなんか書きますよー。
この「素晴らしき日々」はエロゲ名作選なんかでは毎回名前が挙がる作品で、私は(何故か)身構えながらやったのですが、噂にたがわぬ大傑作でした。
文学からの引用が多く、引用元がどれも気になってしまうので、フルコンするころには隣に本が積み上がっている読書家歓喜な作品です。(フルコンまでめちゃくちゃ時間かかったのにまだ終わらせてくれない!嬉しい!)
とはいえ「素晴らしき日々」のテーマとなっている最も重要な引用元は、
ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」ですね。私は未読です。
- 作者: ウィトゲンシュタイン,野矢茂樹
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2003/08/20
- メディア: 文庫
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他の引用元、出てくる本は、(思い出せる限りで)
エドモン・ロスタン「シラノ・ド・ベルジュラック」
ニコラウス・クザーヌス「学識ある無知について」
ジャン二・ロダーリ「猫と共に去りぬ」
ガルシア・マルケス「予告された殺人の記録」
エドウィン・アボット・アボット「フラットランド」
アニメ、漫画、エロゲ、サブカルからの引用も多数、あとクトゥルー神話の邪神も名前だけちょっと出てきます。
なんかめちゃくちゃ敷居が高そうな感じがしますが(高いのも確かですが)、この辺りは分からなくてもいいけど分かったら嬉しいってくらいの認識でいいと思いますし、魅力的なキャラクターと物語の牽引力で敷居の上までぐいぐい引っ張ってくれるので、安心して下から手を伸ばすだけ、何も考えずに買って、やればOKです。人の背丈ほどもある敷居の上に上がってみると世界が違って見えるかもしれませんよ。(敷居は跨げよと)
また、いじめ、自殺、カルト宗教、薬物、その他犯罪などのインモラルな描写 が多々あるので、むしろ苦手な人にこそやってもらいたいエロゲです。
で、ここからネタバレありになります。
プレイ前に知ってしまうと面白味を大きく損なうと思われる部分がありますので注意。
OP たま 「電車かもしれない」
ここからネタバレありです。
水上由岐ちゃんと、間宮卓司、悠木皆守くんは皆守くんの体を共有する三重人格であることなど踏まえた上で、お気に入りの2人について書いていきます。
水上由岐
第一章「Down the Rabit-Hole」の主人公で、頭が良くて、読書家で、強くて、ひらひら服の似合う素敵な美少女です。こんな完璧超人なのに言動がおっさん臭い所があるからか、鼻につくようなこともなく、素直に好きになれます。もう、私が読んだことない本を読んでる娘は絶望的に好きだなぁ。大好き大好き!
この完璧超人の水上由岐ちゃんですが、物語が進んでいくにつれて、めちゃくちゃややこしくて曖昧な存在であることが分かってきます。
まず、身体の主である皆守くんの一人格として羽咲を認識できる由岐ちゃん。由岐ちゃんが消えかかっているときに現れる羽咲を若槻姉妹として認識する水上さん。過去に実在した羽咲を庇って死んだ由岐姉、と、少なくとも3人くらいの水上由岐ちゃんが登場します(呼称は私が勝手に決めました)。さらに、由岐ちゃんと水上さんは由岐姉の魂を持った幽霊のような、皆守くんの脳内疾患により生み出された妄想に過ぎないような。妄想に過ぎないのだとしたら由岐ちゃん、水上さんは皆守くんの願望としての水上由岐でしかなく、由岐姉とは全くの別人なんじゃないか。
みたいな。まさに不連続存在というか、もはや存在自体があゃしぃ。
どう解釈してもいいし、むしろ曖昧なままにしておいてもいいけど、どうする?みたいな問いそのもののような存在です。どうしよう。
この問いについてどうこうする姿がエンディングでも描かれるので重要なテーマです。
そんな危うさが分かってくると、由岐ちゃんのおっさん臭さや、「どったの?」とかの微妙に違和感のある口癖が、由岐ちゃんの存在の証明のように感じられてとても愛おしくなってきます。好きな人は、存在していてくれるだけで嬉しいものです。
橘希実香
橘希実香ちゃんは完璧超人じゃない方のヒロインなので、実際問題リアルに無力な私なんかは希実香ちゃんに非常に勇気を貰いました。水上由岐ちゃんが「憧れの人」だとしたら希実香ちゃんは「同志」とか「戦友」みたいな感じです。そして可愛い。
希実香ちゃんはいじめられっ子で、自分が圧倒的に虫けらであることに自覚的で、虫けらのままで、虫けらなりの方法で敵に立ち向かう姿が描かれます。その姿は勇ましくも儚げで、悲しいくらいに滑稽で、この上なく美しいです。
人間というのは不平等なもので、むしろ不平等な方が自然で当たり前だから、その中でどうやって立ち向かうかをちゃんと考えてるって感じです。私も「なぜ平等でないのか」式の論理はいまいちピンと来ないし、なんか勝てない気がします。
虫けらが人間に立ち向かうためには、虫の武器を使う必要があります。闇に潜み、相手の隙をついて、針で刺す、毒や細菌を使うなどの方法が有効でしょう。潰せば死ぬ虫ごときが、自分のことを人間と認識して、針も毒も抜かれてしまったら、それこそ戦いようがありません。虫パンチ、虫キックは人間に対して有効ではないし、虫が人間に助けを求めたり命乞いをしても、それは無駄なのです。
そのあたりを踏まえた上での、希実香ちゃんの戦いは本当に見事です。
希実香・ざくろエンドでは入手可能なあらゆる凶器、化学薬品、情報を駆使していじめられっ子に立ち向かい、遂に平凡で当たり前の日常を手に入れます。希実香ちゃんが作中で使用したナイフはエストレイマラティオBF2タクティカルタントー(声に出して読みたい)とか言うやつなのですが、このタントーブレードという種類のナイフを調べてみると、「深く突き刺しやすいデザインで殺傷能力に優れているが、キャンプなどの実用には向かない」のだそう。これは希実香ちゃんの実用(殺傷)に重きを置いたナイスなチョイスですね。
希実香・卓司エンドは、あらゆる手段や救世主パワーを使って最大限の勝利を修めます。これが本当に地獄のように幸せなハッピーエンドで、常識的に見てどんなに汚くても、狂っていても、間違っていても、最高に美しかったです。
「素晴らしき日々」ってすげぇこの上ないくらいに漠然としたタイトルで、それゆえにいろんな意味を含んでいるというか、どうとでも解釈できる⇒自分なりに勝手にいろいろ解釈しろ!というような哲学的なタイトルだと思います。
明確な答えは出してくれないんだけど、選択肢は沢山提示してくれるので、私は自分が一番嬉しい意味に解釈してしまいます。
水上由岐ちゃんは幽霊でも、精神疾患の妄想でも好きな方でいい。ずっといてもいいし、いつか消えてしまってもいい。
希実香・ざくろエンドで勝ち取った平凡な日常こそが幸せかもしれないし、希実香・卓司エンドは狂っていても、間違っていても、死んでも幸せかもしれないし、なんなら、信者として意味も分からずに飛んだモブ共も幸せだったかもしれないし、もしかしたらみんなその逆で不幸だったかもしれないし、不幸でも幸せだったかもしれません。
って感じでどうとでも転ばせられます。
「素晴らしき日々」はそのあたりの認識を広げるきっかけにもなり得るし、不幸でも虫けらでもこれで幸せになれるかもしれないし、というか単純に物語がめちゃくちゃ凝ってて、ギャグパートもマニアックで面白くて、あと、ちゃんとエロい、とてもいいエロゲでした。
論理哲学論考読まなきゃ。
ED「空気力学少女と少年の詩」
「マルドロールの歌」は23歳のホールデン坊やによる中二病ノート
シュルレアリスムの原典?みたいな位置づけで語られるロートレアモン伯爵「マルドロールの歌」を読みましたよー。
この本の著者、ロートレアモン伯爵っていうのは筆名で、本名はイジドール・デュカスって言って、伯爵でもないんですけど、「マルドロールの歌」はこのデュカス君のありったけの呪詛、社会とか神とかに対するFuck youで構成されます。
反抗的な要素を書き出してみます。
・全編に渡って文法がめちゃくちゃ(ただし、これは訳のせいもあるかもしれない)
・既存の概念にとらわれない斬新な比喩表現
・社会への反抗
・神への冒涜
などなど、ほとんどすべての要素がまっとうな文学、まっとうな生き方の逆を行く内容となっており、とても読みにくく意味不明な文章のオンパレードなのですが、それでいて「マルドロールの歌」が反文学などと呼ばれたり文学会で一定の地位を占めるのは、そこにある種の輝きを見出すことができるからなのかなーと思います。
有名なところだけでも引用しておけば、「マルドロールの歌」の反文学っぷりが少しは伝わるでしょうか。(ここには冒涜、不平不満要素はないけど)
彼は、肉食鳥の爪の緊縮性のように美しい。いやそれよりも、くびのうしろのやわらかい部分の傷のなかの筋肉の、おぼろな動きのように美しい。いやむしろ、捕えられた動物地震によって、つねにふたたび仕掛けられる、齧歯類だけをかぎりなくつかまえる 、麦わらのしたにかくしておいてもしっかり機能する、不滅のネズミとり器のように美しい。そしてなによりも、ミシンとコウモリ傘の、解剖台のうえでの偶然の出会いのように、彼は美しい!
全編こんな感じの分からないような分からないような分かる・・・?ような文章で綴られているので、正直自分は何を読んでいるのか?果たしてこれを読む意味とは?そしてその価値はあるのか?と自問するような苦行読書ではありました。(言葉のチョイスだけは非常に独特で面白いのでそこだけが救いです。)
で、一通り読み終えて改めて振り返ってみると、なんかロートレアモン伯爵ことデュカス君は随分とかわいいやつだったんじゃないかと思えてきて、そう思うと苦行のようだった「マルドロールの歌」もだんだん愛しくなってきました。(私は錯乱しているのかもしれません)
なんというか、「マルドロールの歌」って、まるっきりデュカス君の自分語りなんですよね。キャラクターを虱だのスカラベだのに置き換えてはいるものの、社会への不平不満を、ほとんど自分にしか理解不能な比喩を使い、読者を置いてけぼりにするような自分勝手な文法で書いたこの本は、
そう!これはまさに中二病ノート!なのです!
デュカス君はロートレアモン伯爵という偽名を使い(しかも何故か伯爵と地位まで偽って)中二病ノートを出版したのです!これは激萌えですよ!
そうやってデュカス君の未熟さに焦点を当てて読むといろんな発見がある気がします。
例えば、「マルドロールの歌」にはいろんな動物、虫、魚介類が登場して比喩に使われてて、その見た目や習性に関してもなかなかに細かいところを突いてくるんですけど、その割に人間があまり出てこなくて、出てきてもなんか紋切型というか典型的社会人ってこんなんでしょっていう「イメージ」だけで描かれてる気がしてどうもうまくないんです。これも私的に萌えポイント、共感ポイントで、デュカス君ってたぶんコミュ障なんですよね。
デュカス君は周りの人と内面の深いところまで踏み込める関係を築いていないから、外面のつまらない、胡散臭いところばかり目について、社会も神も嘘ばっかりだと文句も垂れたくなるんだと思うんです。その点動物はほぼ本能で動いて、嘘が介在する余地もないからコミュニケーションなんぞとらんでも一方的な観察だけである程度理解できていいよね。
私もちょっと前に、車の窓に蜘蛛の巣が張ったことがあるんですけど、面白いからそのまま取らずに放置して観察してたんです。そんなに足があってどうやって歩くんだろう、どうやって巣にくっついてるんだろうとか考えて見てたら、だんだん可愛くなってきて、危うく蜘蛛との間に友情が芽生えそうになりました。
(運転席と蜘蛛の偶然の出会い。90㎞/h出しても吹っ飛ばないくせに、停車している間にいなくなりました)
文法がぐちゃぐちゃで読みにくいのも、ただ未熟なだけ。
訳の分からない比喩も、ただ空気が読めないので周りと同じようにできないだけ。
なのかもしれません。
個人的にこの感じは「ライ麦畑でつかまえて」のホールデン坊やを思い出しました。「マルドロールの歌」の出版当時デュカス君は23歳、23歳のホールデン坊や。
うわ、きっつー。
(そんな本にえらい大人たちが夢中になったって考えるとまたすげぇ面白いです)
と、ここまでめちゃくちゃdisったような書き方をしてきましたが、これは私が「マルドロールの歌」を楽しく読むための妄想に過ぎないってことは断っておいて、例え上に書いたことがすべて真実だったとしても「マルドロールの歌」の価値は全く衰えることはなく、大人たちが夢中になる理由も実は何となく理解できるっていうことについても書いておきます。
「マルドロールの歌」を書ける人って、たぶんデュカス君の他にいないんですよ。
「マルドロールの歌」を書き、世に出すためには、「文章が上手くならないこと」「読みやすさを考えないこと」を維持したうえで、動物に関する博識を身に着けたり、文庫にして303頁の文量を書ききる必要があり、更にそれを出版するためには、自分の書いたものの価値や正しさを信じきっている必要があるんです。
またdisってるみたいになりましたけど、これは素直に凄いことですよ。
凡人は大人になっていく過程で「自分には才能がない」ことに気付いたり、「上手い文章の書き方」みたいなのを学んでしまった結果、社会生活するうえで必要なものを得る代わりに、「わけのわからない何か」を失ってしまうんですけど、その「何か」を大人になるまで保ち続け、更に信じ続けることができるっていうのは並のことではありません。
所謂「ヘタウマ」に近い感覚ですかね。
「初期は絵が荒かった漫画が、長期連載するにつれてだんだん上手くなったけど、なんか初期の絵の方が迫力があったよね」
とか
「大槻ケンヂは間違いなく歌ヘッタクソなのに何故か最高だよね」
とか、そういうやつです。
そして上手くなることによって失ってしまった「何か」はほとんどの場合は二度と取り戻せないんです。
この歳になってやっと子供らしい絵が描けるようになった。
誰でも、ピカソの絵を見てへったくそだなぁと思ったことってあると思うんですけど、あれはピカソが上手くなる過程で失ってしまった「何か」を努力によってようやく取り戻した結果のやつだったのかもしれません。
大人たちは「マルドロールの歌」に「あの日の自分が書けなかった」そして「二度と書くことができない」「何か」を見出したからこそ、魅了され、夢中になったのではないでしょうか。
この種の面白さってイマドキは特にないがしろにされてる感があって、個人的に凄く悲しいんです。
「ミシンとコウモリ傘の、解剖台のうえでの偶然の出会いのように美しい」っていわれて人類の何割くらいが「せやな」と思えるのでしょうか。
私のブログもできればこの種の面白さが出せるといいなーと思って、文学も漫画もエロゲも、クラシックもロックもアニソンも、映画もニコニコ動画も、全部同列で扱い、かつ、すべての分野に関してにわかでいることで変な出会いが起こらないかと期待してる所があるんですけど、なかなか難しいですね。
マルドロールとホールデン坊やの出会いなら少しは美しいでしょうか。
ED 筋肉少女帯「蜘蛛の糸~第二章~」
(デュカス君はたぶんこんなやつ)