鉛甘味料うるたこんべ

変なもの愛されないものを主とした本、映画、工作、その他の記録

八本脚の蝶と透明人間

最近は、少女、女の子、女子、乙女、あとメンヘラさんの思考回路に興味があり、今回は二階堂奥歯さんの「八本脚の蝶」を読みましたよー。

 

八本脚の蝶

八本脚の蝶

 

 (装丁も素敵です)

 

この本ですが、

”自分の生きた日数よりも多くの本を読んできた女性編集者の二階堂奥歯さんが、飛び降り自殺によってその生涯を終える直前までWeb上で書き溜めていた日記”

を書籍化したものとなっております。

膨大な読書量に裏打ちされたすげぇ文章力で日々の出来事や葛藤が綴られており、かつ、ブログという形式からか非常に親しみやすい、奥歯さんが近くに感じられるような書き方がされているので、本好きの人ならすぐに奥歯さんのことが好きになってしまうと思います。

読む前から結末だけは知ってしまっているので、読み進めるのが苦しくはありますが、そこは腹を括って最後まで付き合いましょう。それで奥歯さんの絶望を何十分の1でも共有できていたなら嬉しいな。

 

内容に入りましょう。

この本は「自殺者の手記」でありながら、読み始めてすぐに受ける印象は、聡明で好奇心旺盛な、明るくて、可愛らしい女の子のそれです。

「自殺者の手記」ってなんかもっと、暗ーくてー、陰鬱でー、視野が限りなく狭められているせいで死ぬ以外の選択肢がみつからないー、みたいなのを想像しがちなのですが(そうであって欲しいという願望もある)、奥歯さんの印象は全く逆なんです。

「新しい香水買っちゃった、ウフフ」(意訳)とか

「やったー、ずっと探してた本見つけたー」(意訳)みたいな

嬉しいこと、楽しいことが世の中に溢れているような感じを受けます。

本当に感受性が豊かで、五感をフルに使って世界を感じているのがよく伝わってきて(嗅覚まで刺激してくる文章ってあんまりない)、ページ越しに垣間見える世界はとても鮮やかです。

 

 読書家としての奥歯さんは、読書量、質、共に並外れていて、ちょっと憧れることすらできないくらい遠くに行ってしまっているように感じます。

偏見のない純粋な視点で読んで、感じた世界に、膨大な知識と洗練された思考力で解釈を加えて、自分の世界に組み込んでいくという感じでしょうか。

この「偏見のない純粋な視点」というのが実は結構恐ろしいものな気がして、この目で見ると、たぶん「死ぬこと」すら肯定できるんです。

「死んではいけない」っていうのは、偏見ですから。

奥歯さんは本の序盤から「死ぬこと」に関してはかなり肯定的です。それでも生きていたのは、痛いから、怖いから、あとは大切な人が悲むから、etc。それらの死なない要因と、生きていくことのつらさが天秤の上でふらふらと揺らめいているような状態で、ちょっとバランスを崩せばすぐにでも死んでしまいそうな危うさがあります。

 (そして実際にそうなった)

しかも、奥歯さんって、おそらく説得不可能なんです。

余りに思考が明晰で、おそらく考え得る死なない理由を網羅したうえで、論理的な帰結として死を選んでいるから、本当に何も言えない。

強いて言えるとしたら、「私はあなたに死んでほしくない」ということだけなのだけれど、それでも死ぬって言われたらもうどうしようもない。縛り付けておくとか、物理的な方法しかないって気がします。

 

で、そういう思考になってしまったのはやはり読書が原因なのだと思います。

 

っつーて奥歯さんが読んでたのが有害図書だったって訳ではなくて(むしろ八本脚の蝶で紹介されているのは私が思うに良質なものばかり)、読書という行為そのものの効用?みたいな感じで、効用って呼ぶからには基本的にはいい効果をもたらすもののはずなのです。そのへんちょっとちゃんと書きます。

 

まずは、「基本的に人は見たいものしか見えない」ってことについてです。

 例えば、車に興味がなく、かつ現状車を必要としない人は、普段道で車を目にしても、漠然と「車」としてしか認識せず「大きい車」「小さい車」「高そうな車」くらいの分類で済ませて、それ以上の認識をしないっていう場合が多いんじゃないかと思います。

この人が、日常の足として車を手に入れようという段になると、その先の認識をするようになります。車種によって、燃費が機能が云々とかを調べて、道で見かける車を「どこ」のメーカーの「何々」で燃費がいいらしい、くらいに認識するかもしれません。

車を手に入れた後は、自分のと同じ車を見つけると「おっ!」ってなったりするんじゃないでしょうか。

 

この人は当初、未来に自分のものになる車を見ても「車」以上の認識をせず、例えば後から「どこそこの何々車を見かけたねー」みたいな話をしても「なんのこっちゃ」となるわけですが、車を手に入れた後だったら「そうねー、最近よく見るのよー」くらいの状態にはなるかもしれません。

このように、その人の知識や興味のレベルによって世界の見え方っていうのは変化するもので、物理的には「見えている」(網膜に映っている)のだけれど「見えていない」(認識していない)ものっていうのは実際かなりあるのだと思います。

(ルールを知らない、やったことない人に野球とか将棋とかの面白さが伝わらないー、とかも同じような理屈)

 

で、そういう「見えなかった」(認識できなかった)部分を「見える」(認識できる)ようにする効果みたいなのが、読書にはあるのだと思います。

 っていうのも、言語(絵とか写真、音楽とかも)によって表現されるのはその作者によって「認識された世界」そのものでしかなく、(認識できていないものは書けない)読書っていうのは記述された作者の認識を読む行為であるので。これはフィクション、ノンフィクションに限らずそう。

読むことにより作者の目を通して認識された世界は、ゆうて疑似的なものでしかなく、物理的刺激を伴わない分完全ではないのだけれど、現実世界でも実物を認識するための下地になります。

本の中で登場した車を、「あぁ、これね。」と道で一度確認することにより、それ以降はもう完全に認識できるようになります。

つまり、読書とフィールドワークを重ねることで、認識される世界の解像度はどんどんと上がっていくということになるわけです。

(ただし、読む本が偏り過ぎている場合はその範疇ではない)

 

 読書って、光源を集める作業、みたいなイメージ。

集めた光源が赤色光に偏重したりすると、世界が本来の色に見えなったりする場合もあるのだけれど、更に光を集めて、青、緑を重ねることによって、本来の極彩色の世界を透明な光で照らしだすことができる。

光を集めるほど視界がクリアになって、より細かく、より遠くまで見通すことができる。鮮やかで、綺麗で、面白いものをたくさん見つけることができる。楽しい。 

 

 

 では何故死ななければならなかったのか。

 

ってことを考えると、やはりいろんなものが見えすぎて困るってことはあるのではないでしょうか。

見えすぎて困るもの、それは思うに、世の中で暗黙の了解とされているいろいろの無根拠とかな気がします。

公的に言われる

○○しなければならない。

○○するのが普通。

みたいな言葉を、もう少し踏み込んで考えると、大体において何の根拠もなくなってしまうのです。で、無根拠に何かを強いられるのって物凄い苦痛なんです。それは「生きなければならない」っていうのすらそう。

 

例えば、

物凄い長時間労働を強いられる ⇒ 仕事だからしょうがない。やるしかない。

ここで思考停止できれば身体を壊さなければたぶん頑張れる。

 

物凄い長時間労働を強いられる ⇒ 仕事だからしょうがないか。本当にそうか。 ⇒ そもそもなんで仕事してんだい? ⇒ 人生を豊かにするため。幸福であるため ⇒ じゃあ仕事頑張れば幸せになれる? ⇒ 頑張って働いてお金を稼いでも、それを使う暇もない。仕事が減る気配もない。 ⇒ じゃあなんで仕事するんだい? ⇒ (沈黙)

ここまで考えてしまうともうダメ。仕事をするのが苦痛でしょうがないのです。

 (本当はまだいろいろと分岐はあるけどゴールはほぼ一定なので省略)

 

奥歯さんは自分に「生きなきゃならない」と思わせてくれるような「絶対的な根拠」を本の中に必死で探していた人のように思います。

 

物語の光で世界を照らして、より細かく、より鮮明に、より遠くまで見つめても見つからなくて、果てはX線放射線まで持ち出して、いろんなものを透かして見てもどうしても見つからなかったから、終には自分の集めた光で自分自身が透明になってしまったような人。

透明人間になってしまった奥歯さんとはもう話すことは出来ないけど、「八本脚の蝶」を開けば、透明な奥歯さんの体を透かして奥歯さんの見ていた世界を少しだけ見ることができる。

鮮やかで、とても綺麗です。

 

ED 東京事変「透明人間」


東京事変 透明人間 ライブ(live)歌詞付き