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鉛甘味料うるたこんべ

変なもの愛されないものを主とした本、映画、工作、その他の記録

存在の耐えられない軽さは、もやっと引っかかる映画だった

プラハの春などが題材になっているとの文句に惹かれ、見た。

 

この「存在の耐えられない軽さ」ってタイトルが意味深で、既に何かを訴えられている感覚に陥るのだけれど、その意味までは分かるようでわからない。原題も「The Unbearable Lightness of Being」なので割と直訳だ。映画事態も同様に分かりそうでわからない。視聴者にこの意味を考えさせるためのヒントみたいな構成になっているのかな。

ただし、答えは出さないし、むしろ命題すら抽象的で曖昧だからヒントを頼りに視聴者自信が導き出した答えどころか主題の時点で、きっと一人ひとり異なるやっかいなやーつ。

だから、ともすれば退屈で、どこか気持ち悪くすらある。しかし何か引っかかる。そんな映画でした。

 

ストーリーとしては

軽い男=トマシュ、重い女=テレーザ、軽い女=サビーナの3人がちちくり合ったり、ちちくり合ってんじゃねーぞっつったり、離れたり、追ったり、くっついたり、静観したり、隠遁したりする。

っていうもんなんだけど、これってやろうと思えばなかなか劇的なものにできそうなストーリーだと思うんだけど、あえてそうはせずに、随分と穏やかに話が進んでいくんです。あるいは話は進まずに時間だけが進むんです。

 

見る側としては「存在の耐えられない軽さとはなんぞや?」って部分に注目してしまって、それっぽい投げかけみたいなのもないまま1時間くらい経つので多少拍子抜けしてしまう。トマシュ!なんて軽薄な野郎なんだ!くらいにしか思わない。

 

それくらい経った後でやっとそれっぽい台詞が出てくる

曰く

私にとっては、人生は重いもの。 でもあなたにとっては、人生は軽い。私にはその軽さに耐えられない。

 トマシュとテレーザ、こいつら結婚してんだけど、テレーザとしては亭主を持つ身でありながら例えば他の男になびくなんてことは不貞であり、裏切りであると思っている、というよりは思ってしまう?トマシュとしてはテレーザの気持ちを知っていながら「ついヤっちゃうんDA!」くらいのノリでサビーナと遊んだり、知らない女をちょろまかしたりしてるもんだから、テレーザは我慢の限界、上記の言葉を残して家を出て行ってしまうのです。

だからと言ってテレーザは決してトマシュの生き方を否定しているわけではなく、どちらかといえば憧れているようなところがあって、こう、「私はトマシュはそういう人だと知っていて結婚したのだから、私の生き方を彼に押し付けるのはただのエゴで、彼は結局私の元へ戻ってきてくれるのだからちょっと遊ぶくらいどうってことないはずなのに!重い、自由になれない私が悪いんだ。」って感じか。

 

重さ=不自由さ、軽さ=自由さ、ってことかしら。こう表現しちゃうとそりゃ自由の方がいいわさ。ってなるけれどそうじゃない。不自由さも捨てがたい。

例えば自由人トマシュにとってテレーザは最後の不自由さであったかもしれないけれど決して手放さない大切な存在だったと思うし。そういう意味ではサビーナが一番自由だったかも知らんけど求婚されて本当に嬉しいはずなのに逃げ出すあたりには、自由であるために幸せを享受できない不自由さみたいなものも感じる。

 

なんだろうな。共存できない…とかか?

あぁ、何が正しいとかではなくて漠然と「そうなんだ」ってことを言っているのかもしれない。

 

そういうわけなので今回は結論とかは出ないままで終わっとくのがいい感じだ。

たぶんもう一回見たら全く別の感想持つ気もするし。

 

そう、「存在の耐えられない軽さ」はもやっと引っかかる映画だったよ。