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鉛甘味料うるたこんべ

変なもの愛されないものを主とした本、映画、工作、その他の記録

「マルドロールの歌」は23歳のホールデン坊やによる中二病ノート

読書

シュルレアリスムの原典?みたいな位置づけで語られるロートレアモン伯爵「マルドロールの歌」を読みましたよー。

 

マルドロールの歌 (集英社文庫)

 

この本の著者、ロートレアモン伯爵っていうのは筆名で、本名はイジドール・デュカスって言って、伯爵でもないんですけど、「マルドロールの歌」はこのデュカス君のありったけの呪詛、社会とか神とかに対するFuck youで構成されます。

 

反抗的な要素を書き出してみます。

・全編に渡って文法がめちゃくちゃ(ただし、これは訳のせいもあるかもしれない)

・既存の概念にとらわれない斬新な比喩表現

・社会への反抗

・神への冒涜

などなど、ほとんどすべての要素がまっとうな文学、まっとうな生き方の逆を行く内容となっており、とても読みにくく意味不明な文章のオンパレードなのですが、それでいて「マルドロールの歌」が反文学などと呼ばれたり文学会で一定の地位を占めるのは、そこにある種の輝きを見出すことができるからなのかなーと思います。

 

有名なところだけでも引用しておけば、「マルドロールの歌」の反文学っぷりが少しは伝わるでしょうか。(ここには冒涜、不平不満要素はないけど)

彼は、肉食鳥の爪の緊縮性のように美しい。いやそれよりも、くびのうしろのやわらかい部分の傷のなかの筋肉の、おぼろな動きのように美しい。いやむしろ、捕えられた動物地震によって、つねにふたたび仕掛けられる、齧歯類だけをかぎりなくつかまえる 、麦わらのしたにかくしておいてもしっかり機能する、不滅のネズミとり器のように美しい。そしてなによりも、ミシンとコウモリ傘の、解剖台のうえでの偶然の出会いのように、彼は美しい!

 全編こんな感じの分からないような分からないような分かる・・・?ような文章で綴られているので、正直自分は何を読んでいるのか?果たしてこれを読む意味とは?そしてその価値はあるのか?と自問するような苦行読書ではありました。(言葉のチョイスだけは非常に独特で面白いのでそこだけが救いです。)

 

で、一通り読み終えて改めて振り返ってみると、なんかロートレアモン伯爵ことデュカス君は随分とかわいいやつだったんじゃないかと思えてきて、そう思うと苦行のようだった「マルドロールの歌」もだんだん愛しくなってきました。(私は錯乱しているのかもしれません)

なんというか、「マルドロールの歌」って、まるっきりデュカス君の自分語りなんですよね。キャラクターを虱だのスカラベだのに置き換えてはいるものの、社会への不平不満を、ほとんど自分にしか理解不能な比喩を使い、読者を置いてけぼりにするような自分勝手な文法で書いたこの本は、

そう!これはまさに中二病ノート!なのです!

デュカス君はロートレアモン伯爵という偽名を使い(しかも何故か伯爵と地位まで偽って)中二病ノートを出版したのです!これは激萌えですよ!

 

そうやってデュカス君の未熟さに焦点を当てて読むといろんな発見がある気がします。

 

例えば、「マルドロールの歌」にはいろんな動物、虫、魚介類が登場して比喩に使われてて、その見た目や習性に関してもなかなかに細かいところを突いてくるんですけど、その割に人間があまり出てこなくて、出てきてもなんか紋切型というか典型的社会人ってこんなんでしょっていう「イメージ」だけで描かれてる気がしてどうもうまくないんです。これも私的に萌えポイント、共感ポイントで、デュカス君ってたぶんコミュ障なんですよね。

デュカス君は周りの人と内面の深いところまで踏み込める関係を築いていないから、外面のつまらない、胡散臭いところばかり目について、社会も神も嘘ばっかりだと文句も垂れたくなるんだと思うんです。その点動物はほぼ本能で動いて、嘘が介在する余地もないからコミュニケーションなんぞとらんでも一方的な観察だけである程度理解できていいよね。

私もちょっと前に、車の窓に蜘蛛の巣が張ったことがあるんですけど、面白いからそのまま取らずに放置して観察してたんです。そんなに足があってどうやって歩くんだろう、どうやって巣にくっついてるんだろうとか考えて見てたら、だんだん可愛くなってきて、危うく蜘蛛との間に友情が芽生えそうになりました。

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(運転席と蜘蛛の偶然の出会い。90㎞/h出しても吹っ飛ばないくせに、停車している間にいなくなりました)

 

文法がぐちゃぐちゃで読みにくいのも、ただ未熟なだけ。

訳の分からない比喩も、ただ空気が読めないので周りと同じようにできないだけ。

なのかもしれません。

 

個人的にこの感じは「ライ麦畑でつかまえて」のホールデン坊やを思い出しました。「マルドロールの歌」の出版当時デュカス君は23歳、23歳のホールデン坊や。

うわ、きっつー。

(そんな本にえらい大人たちが夢中になったって考えるとまたすげぇ面白いです)

 

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

 

と、ここまでめちゃくちゃdisったような書き方をしてきましたが、これは私が「マルドロールの歌」を楽しく読むための妄想に過ぎないってことは断っておいて、例え上に書いたことがすべて真実だったとしても「マルドロールの歌」の価値は全く衰えることはなく、大人たちが夢中になる理由も実は何となく理解できるっていうことについても書いておきます。

 

「マルドロールの歌」を書ける人って、たぶんデュカス君の他にいないんですよ。

「マルドロールの歌」を書き、世に出すためには、「文章が上手くならないこと」「読みやすさを考えないこと」を維持したうえで、動物に関する博識を身に着けたり、文庫にして303頁の文量を書ききる必要があり、更にそれを出版するためには、自分の書いたものの価値や正しさを信じきっている必要があるんです。

またdisってるみたいになりましたけど、これは素直に凄いことですよ。

凡人は大人になっていく過程で「自分には才能がない」ことに気付いたり、「上手い文章の書き方」みたいなのを学んでしまった結果、社会生活するうえで必要なものを得る代わりに、「わけのわからない何か」を失ってしまうんですけど、その「何か」を大人になるまで保ち続け、更に信じ続けることができるっていうのは並のことではありません。

 

所謂「ヘタウマ」に近い感覚ですかね。

「初期は絵が荒かった漫画が、長期連載するにつれてだんだん上手くなったけど、なんか初期の絵の方が迫力があったよね」

とか

大槻ケンヂは間違いなく歌ヘッタクソなのに何故か最高だよね」

とか、そういうやつです。

そして上手くなることによって失ってしまった「何か」はほとんどの場合は二度と取り戻せないんです。

 

晩年のピカソも言ってます。(ピカソってあのピカソです)

この歳になってやっと子供らしい絵が描けるようになった。

誰でも、ピカソの絵を見てへったくそだなぁと思ったことってあると思うんですけど、あれはピカソが上手くなる過程で失ってしまった「何か」を努力によってようやく取り戻した結果のやつだったのかもしれません。

 

大人たちは「マルドロールの歌」に「あの日の自分が書けなかった」そして「二度と書くことができない」「何か」を見出したからこそ、魅了され、夢中になったのではないでしょうか。

 

 

この種の面白さってイマドキは特にないがしろにされてる感があって、個人的に凄く悲しいんです。

「ミシンとコウモリ傘の、解剖台のうえでの偶然の出会いのように美しい」っていわれて人類の何割くらいが「せやな」と思えるのでしょうか。

私のブログもできればこの種の面白さが出せるといいなーと思って、文学も漫画もエロゲも、クラシックもロックもアニソンも、映画もニコニコ動画も、全部同列で扱い、かつ、すべての分野に関してにわかでいることで変な出会いが起こらないかと期待してる所があるんですけど、なかなか難しいですね。

 

マルドロールとホールデン坊やの出会いなら少しは美しいでしょうか。

 

 

ED 筋肉少女帯「蜘蛛の糸~第二章~」

(デュカス君はたぶんこんなやつ)


筋肉少女帯 - 蜘蛛の糸 ~第二章~