鉛甘味料うるたこんべ

変なもの愛されないものを主とした本、映画、工作、その他の記録

私たちはジョジョが大好きだ JORGE JOESTAR

舞城王太郎ジョジョでやりたい放題やった本ってだけで垂涎なのに、Amazonの評価が最低or最高の二極化してるなんてそんなん面白いに決まってるじゃないですかー♡♡

と思って読みましたー。

 

ジョージ・ジョースターッ!!

JORGE JOESTAR

(表紙のリサリサは目が離れてて垂れ目であんまりリサリサっぽくない)

 

あらすじ!

ジョージ・ジョースターいじめられっ子のヘタレでありながらもリサリサの寵愛を受けゆとり生活を満喫し、なんやかんや成長して飛行機のパイロットとして活躍したりするのだった。そしてもう一人の名探偵ジョージ・ジョースターは究極生物、吸血鬼、神父、悪魔、殺人鬼などのチート能力者たちに翻弄されて、西暁町、杜王町、火星、イギリス、裏返った杜王町、アメリカ、隣の世界、あらゆる時と場所を駆け巡る奇妙な冒険に巻き込まれていくのであった。

あらすじ終わり!

 

要は、ジョージ・ジョースターの名を冠してこそいるがその実は単にジョージが長官ゾンビに殺されるだけの話にあらず。各部の舞台を股にかけたチート能力者たちのオールスターバトル!ASBなのです(って書くと駄作感が出るけど名作です)!

 

本編を一通り読んだ人なら誰だって思う(俺だって思う)ことだと思うんだけど、

「カーズがラスボス最強じゃね?」とか

「結局聖人って誰よ?」とか

「ディオが天国に行ってたらどうなってたの?」とか

「時を操るスタンド使い同士が戦ったらどうなっちゃうの?」とか

疑問は尽きず、

「究極生命体カーズは何を思うのか?」とか

「何故プッチの能力は時の加速なの?」とか

「エリナさんとディオ」とか

「ディオとジョルノ」とか

キャラに対する掘り下げ方も異様に深く、読書家舞城王太郎一流の解釈がこれでもかと詰め込まれているので、これを読んでから本編を読んだら、また新しい視点でより深く、より楽しく読み込むことが出来そうです。

 

各部に跨った疑問の山、妄想の大海をギッチギチに凝縮して、本編に矛盾が生じない、つじつまの合う物語を超絶技巧により構成し、1冊に纏めたのがこの本です。

こんな内容の割に本編の方に矛盾は生じないし、意外にキャラに対する解釈も「そうかもしれない」と思わせるスゴ味と説得力がありました。

 

で、こういう内容だと、この本は短編集みたいなもんで一貫したテーマみたいなものはないのかっていう気もしてきますが、そういうわけでもないです。

私が受け取ったテーマはなんだかんだ言って

 

ジョジョ

 

ですね。

そりゃそうじゃんって気もしますが、765ページの長編を書きあげるほどの愛ってすごいですよ。この本「魍魎の匣」(講談社ノベルス版)よりページ数多いんですから。

一見荒唐無稽に思える物語を包み込むのは、舞城少年が抱いた「奇妙な冒険」への無邪気な憧れであり、「こうしたい」「こうなのかもしれない」「こうだったらいいな」という祈りであったのではないでしょうか。

愛は 祈りだ。

作中で”ビヨンド≒作者がジョージ・ジョースターを主人公に選んだ”、”ビヨンドの意図がどうのこうの”みたいな、メタい表現で作家の存在を匂わせることで、他でもない「舞城王太郎がこれをやりたかったのだ」っていうのを言っている気がします。(まぁ、メタいのはいつも通りではあるけれど)

「JOEGE JOESTAR」は、舞城王太郎から荒木先生への好き好き大好き超愛してる。なんですね。文体が軽薄でも、物語が破壊的でも、結局愛は美しいよなー。

 

 

で、ここからちょっと思い付きの話

 

「何故こんなにジョジョが好きなのか」

 

私、舞城王太郎とか西尾維新とかの所謂「メフィスト賞作家」たちが、普通のいい作品だって書けるのにどうして「0か100か」みたいな好き嫌いの分かれる作風で書き続ける理由を分かってる気でいるんですけど、

あれっているのは、

「なるようにしかならない」こととか「常識の範囲内でやるのが美徳とされる」ことへの反逆なのかなって思います。

 

小説(とか漫画)って所詮紙とインクに過ぎないのだけれど、技術さえ伴えば、自分の身一つで、何の制約も受けることなく脳髄から宇宙すら引っぱり出せるっていうすげぇ文化でありまして、「なんでもあり」なのがいいところのはずなんです。

 

しかし現実に「よく」売られてる本はどうでしょう。

「誰かが幸せになって嬉しい」「誰かが死んで悲しい」

みたいなよくある似たようなきれいな話が量産され続け、こういう本はパブロフ系男子、パブロフ系女子に買われてベストセラーになるけれど、一方で「なんでもあり」の素敵ワールドを描いた作品は淘汰され、一部の狂人の中だけで愛好されるに過ぎないんです。

小説の中では「誰かが幸せになって悲しい」世界や「誰かが死んで嬉しい」世界だってあってしかるべき(まぁ、それが面白いかは置いといて)なのに、そんな本はなかなか見つけることができない。

 

そこに至った人、よくあるきれいな話をつまらなく感じてしまった人が物語を紡ぐとしたら、どうなるかってことを考えると、おそらく

「なるようにならない」「常識から逸脱する」

ことを大前提として書き始めることになると思うのです。

自分が楽しい物語を作りながら、たまにパブロフちゃんが間違えてこっち側に落ちてくるように蜘蛛の巣を張っているのです。あわよくば「なるようにしかならない」本の方が淘汰されて、もっと楽しい本が世界中に溢れるように。

 

で、そろそろジョジョの話です。

 

読書初心者、漫画初心者にとって、「なるようにならない」世界を見つけるのはすごく難しいんです。ベストセラーにならないから。日の目を見ないから。日の当たる世界にいながら「ドグラマグラ」の文字列を見つけるのは道で段ボールに入った猫の死体を見つけるくらいには困難です。

よくあるきれいな話をつまらなく感じてしまったとしても、それは自分の方がおかしいのだ、周りが面白いというのだから面白いのだと自分を偽り、うすら笑いを顔に張り付けて生きていくことを強いられるのです。

 

ジョジョはですね、そんな悲しき失格人間たちが初めて見つけるサブカルであり、「なるようにならない」世界だったのではないかと思ったのです。

だって、ジョジョって「週刊少年ジャンプ」に載ってたんですよ!(今はウルジャンだけど)

漫画の文脈からは絶対にたどり着けない独特の絵柄で奇抜なキャラクターが奇妙な戦いを繰り広げる漫画、「なるようにならない」世界が、少年たちのすぐ近くにあった。

ジャンプでジョジョに出会って「面白い世界」を初めて認識し、救われた失格人間のいかに多くあったか!自分を殺してつまらない世界に甘んじるはずだった人をジョジョがどれだけ救ったか!

悲しき失格人間たちにとってジョジョは命の恩人であり、奇妙な冒険に誘ってくれる良き友であったのかもしれません。

そんなジョジョが嫌いになれるわけがないし、大好きだし、思い出補正を抜きにしてもいまだに面白いんだから、もう、超愛してるって訳ですよ。

 

当時ジョジョが担っていた「なるようにならない」物語を紡ぐ役割を、黄金の精神を、今、舞城王太郎とか西尾維新とかが受け継いでるんだとしたら、それは素敵なことだなって。

 

ED カール・オルフ 「Carmina Burana ~O Fortuna」

(命を運んでくると書いて運命か)


Carmina Burana ~ O Fortuna | Carl Orff ~ André Rieu