鉛甘味料うるたこんべ

変なもの愛されないものを主とした本、映画、工作、その他の記録

変態文学で紐解く 「堕落論」 あなたは美しい

坂口安吾堕落論」を読みましたので、書きますよー。いえー。

 

えー、「堕落論」に先立ちまして、ひとまずフランス文学の話をしましょう。

っていうのも、「堕落論」もそうなのだけれど、安吾さんは考え方が非常に独特で、どういう過程を経ればそこに至るのか謎。みたいなところがあるんですけど、”フランス文学を学んだ”経歴があるそうなので、(ソースはwikipediaの”フランス文学を学んだ”という一文だけなので、ほとんど私の妄想ですが)そこから堕落の思考を紐解いてみたいなーと思ったのです。

 

私ね、「変態文学」はちゃんと集めようと思いながら日々の読書に勤しんだり、本屋を回ったり、ネットサーフィンしてるんですよ。

で、古今東西の変態文学を漁り、結構増えてきたなーと思って、ある日並べてみた時に気付いたんですけど、どういうわけか並外れた変態文学はかなりの割合でフランス人の手によって生み出されているっぽいんです。ラブレーとかサドとかジュネとかマンディアルグとかバタイユとか、これでもまだごく一部だと思うんだけどそうそうたる顔ぶれです。(ただし、私が無意識にフランス人から選んだ可能性もあるし、澁澤龍彦あたりのおかげでエキセントリックなフランス文学に触れることが容易な日本になっただけって可能性もあるのだけれど、まぁ、そうなのです。)

 

当然集めるだけじゃなく読みもするのだけれど、常軌を逸した変態文学にある程度親しんでくると、どういうわけか変態文学の中に一般文学では得られないある種の「感動」を見つけることができるんです。

でも、変態文学の中で描かれる情景で感動的なことなんて一つもないのです。そりゃあうんこ食べる話に感動するわけがなくて、なんだかんだ言って私だって何らかの「美しさ」みたいなのに感動するんじゃないでしょうか。

そう、変態文学には謎の美しさがあるのです。

執拗に繰り返されるうんこを食べる話の中に謎の輝きを見つけることができるのです。

 

自分の中で起こっている感情なのに、この感覚っていうのは説明のつかない部分があったのだけれど、思うに、「堕落論」に書かれている意味での「美しさ」だとか「文学のあり方」を感じる時の感覚に近いのではなかろうかと思ったのです。

 

堕落論 (角川文庫)

 

 安吾さん曰く

 

生きよ堕ちよ、

 

道徳も倫理も政治も人を幸せにしないし、「わび」も「さび」もよくわからないし、世間は「それっぽい」ってだけの理屈でホンモノか否かを断じ、嘘で塗り固められたニセモノをもてはやしているものである。

自分が何かを「正しい」と判断するとき、それは本当に自分の判断だろうか?

「道徳」という根拠のない正道が、「倫理」という訳の分からない規範が、「世間」という誰でもない誰かが、下した判断を自分のものと勘違いしてはいないだろうか?

人が大人になる過程の中で「自分の感性」が「道徳」だとかの訳の分からない判断基準に騙されて、本当の願望とは全く逆の行動を取らされているとしたら、こんなに苦しいことはないではないか。

 

直ちに堕落してやり直すべきだ。

 

「道」を踏み外し、「理」に尽きず、「世間」に背を向けてみて初めて、何物にも左右されない「自分の感性」でものを感じることができるのである。

清貧は欺瞞であり、贅沢は素敵だ!

 

はい!

 

で、フランス文学の話に戻りましょう。

とりわけ変態文学っていうのは、堕落しきった地獄のどん底で紡ぎだされた、外道、理不尽、反社会に満ちた現代まで続く呪いみたいなもんです。サドなんか貴族の産まれでありながらバスティーユに収監され、獄中でこそこそと文章書いてた人なわけで、サドが残した文章っていうのはそんな過程で成り立ってるわけです。さらにあの内容なわけですから、そこには嘘も、見栄も、建前も、恥も、外聞も、守るべきものなんてありえない。

そのクラスの変態文学というのはまず間違いなく、類まれな堕落者たちの「むき出しの感性」なのです。

「むき出しの感性」が時代も距離も飛び越えてしっかりと伝わったからこそ、本来美しさなんかとは無縁のはずのうんこを食べる話に私は「己を偽らない真実の美しさ」を見たのかもしれません。

 

 

 しかしながら、捕捉が必要かと思います。

堕落しろっていっても、正しく堕落しろっていうのが結構重要なのです。

堕落三昧で本能むき出しやりたい放題の淫蕩生活でみんなハッピー、って話ではないのです。その辺のニュアンスが難しいのだけど、断じて違う。畜生道に落ちろって話ではないのです。

 

その証拠になるか分からないけど、「堕落論」を実際に読んでみるとたびたび思うことがありまして、社会通念と真逆の思想を展開したり大御所の作家先生を批判したりしてばっかりいる安吾さんですけど、この人ってたぶん誰よりも優しいんです。優しくなかったら「生きよ」とは言わない。

フランス文学で言っても、堕ちるところまで堕ちきっているように思えるサドだって変態プレイはしたかもしれないけど殺人はしなかったそうです。(優しかったかどうかは知りませんが、この人は変態性を人ではなく紙にぶつけてたんですかね。)

 

で、考えたんですけど、「正しく堕落しろ」っていうのは、堕落し、堕落によって露わになったむき出しの自分としっかり向き合い、自分や他人が変態であることを肯定することができる懐の深さ持てってことな気がします。(「変態」の部分はいろんな言葉に置き換え可能です。「性悪」とか「節操無し」とか「甲斐性無し」とか「小悪党」とか)

 

「世間」曰く、変態とは悪であり、存在自体が罪である。

で、自分もそう思い込んでいるならば、自分の中に変態性を見つけたときにつらくなる、他人の変態性を許せなくてイライラするって訳です。ギャップの苦悩です。

だとしたら、自分の変態性を感性の一部として認め、仲良くやっていくことができたなら、そんな苦悩はさっぱりなくなるんじゃないでしょうか。他人に対しても、分かったような顔した道徳の人なんかより、真に優しくなれるんじゃないでしょうか。

なんというか逆説的性善説?違うか。

 

えー。

 

堕ちて、

どんなにみっともなかろうと、

生きて、

醜態を晒し続ける人は、

実は真に美しく、優しいのかもしれません。

 

 ED 中森明菜 DESIRE

(真っ逆さまに堕ちて desire)


DESIRE-情熱- / 中森明菜