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鉛甘味料うるたこんべ

変なもの愛されないものを主とした本、映画、工作、その他の記録

小さな悪の華は小さな恋のメロディのダークサイドかと思った。

先日は「小さな恋のメロディ」について書いて今回は「小さな悪の華」です。

漫画の「惡の華」が大好きでここ数年では唯一単行本を追って読んでて、完結した後はちょっと離れてたんだけどネットを徘徊してたらこの映画を見つけて、あ、これ作者が影響受けたやつかと思い出す。見る。

 

あらすじ

アンヌとロールはいつも一緒。2人で秘密で企てた悪を実行しながらずっと一緒にいることを約束するのであった。

あらすじ終わり

 

これは「小さな恋のメロディ」のダークサイドと言う表現が割といい感じに当てはまるのではないかと思った。

っていうのも、「小さな恋のメロディ」は”思春期特有の社会への反逆”というテーマの中から美しい部分を取り出したものであったと思うのだけど。例えば、社会の欺瞞が受け入れられないのは子供が純真無垢であるから、反逆のエネルギーが恋に向かう、など。

これに対して「小さな悪の華」の2人の反逆のエネルギーは規律や美徳に向かう。つまり、悪、世間一般に悪とされていること、を積極的に行うことにより、社会への不満をぶつけているという風に(自分には)読み取れるためです。

先日の記事って↓これなんだけど

 

小さな恋のメロディからマルキ・ド・サドの美しさを思ふ - urutakonbe’s diary

 「小さな悪の華」の2人はまさに”マルキ・ド・サド”の側に走って行ってしまったダニエルとメロディであったのではないかと思ったのです。15の小娘2人では到底サド侯爵の高みまで上ることは出来ませんが根底に流れる志は同じものであったと思います。

そして行動がどうであれ、やはりその志自体は美しいものと感じます。

(サドがやたら出てくるのは自分の趣味で、映画とは関係ありません。2人がサドを手本にしてるとかそういうのもないです。象徴として使いやすいんです。)

 

2人の原動力みたいなものを考えてみたいのだけど、なんでそんなことをするのか、なぜその形をとるのか。

だって悪いことが大好きって言ってる割に鳥を殺して泣いたりするんだよ。悪はやりたいこと、ではなく、やらなくてはならないことなんだ。何が2人をそこまでさせるのか。

思うに、社会ってやつには誰が作ったかも何故そうであるのかもまったくもって不明瞭な規則みたいなものがたくさんあるっていうのが重要なのです。特に2人はキリスト教の学校に行っているからそういう規則が多いわけで、映画内でも牧師さんが説教を垂れるシーンで「自分勝手したらあかん。エロいことしたらあかん。」とわからんことを言って、なんかみんなから称賛されるわけです。

それでいて、子供はエロいことから生まれてくることくらい知っているし、シスターが夜な夜なレズってることも知ってる、隠れてエロ本読むのが楽しいことも知ってる。これって全部規則とは逆じゃないの。なんなの。

で、2人の原動力目的っていうのはそのあたりのもやもやを何とかしたい、真実を知りたいみたいな感じでしょうか。2人は真の求道者で、破戒僧の手法で真理を探究するのである。とはいえ、言ってることとやってることが矛盾した阿呆共の本性を暴きたいとか、自分の楽しいと思うことつまり悪の正しさを証明したいとか、そんな感じのことも言える気もします。うん、そのあたりの感情が鳴門海峡のように渦を巻いているのだ!ってぐらいもやっとしたのが正当な気がする。

 

本来正しいはずの人たちが阿呆に見えて、本来間違っているはずの2人が美しく見える。

正しさを考える映画。