鉛甘味料うるたこんべ

変なもの愛されないものを主とした本、映画、工作、その他の記録

快楽を飼い慣らすのか、飼い慣らされるのか 「euphoria」

euphoria」フルコンプしましたので、なんか書きますー。いえー。

 

何やらハードめなエロゲの傑作とのことなのでワクワクしながらプレイし始め、私の期待を裏切らないどころか遥か頭上を飛び越えていくすげぇエロゲでした。

私はエロゲ歴2作目の糞にわかなので評価に困りますが、私のゲーム歴、読書歴の中に含めてもかなり上位に入る大好きな作品になりました。

なんというか「家畜人ヤプー」とか「O嬢の物語」とか「ドグラマグラ」の遺伝子を感じたような気がして、凄く嬉しい気持ちになりました。これらの奇書、問題作って、一代限りで途絶えてる(だから貴重)って気がしてたんだけど、私の知らないところで脈々と後継が作り出されているのかもしれないと思うと多幸感に包まれながら眠りにつけます。この糸は弱そうに見えて以外に強靭ですね。

 

↓この並びです!

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あらすじ!

真っ白な部屋に閉じ込められた主人公(恵ちゃん)と5人の少女たち(委員長は含まない)。淡々とした機械音声が凌辱ゲームの始まりを告げる!扉は全部で5枚、1回のゲームをクリアすると扉は1枚開かれる。開錠者(恵ちゃん)は用意された鍵を鍵穴(少女たち)の口・膣・乳・尻といった部位に使用する。 5ターン以内にすべての扉が開かれなければ全員死亡。主人公の選択は?!ゲームの目的とは?!

あらすじ終わり!

 

あらすじとしてはこうなのだけど、どちらかというと部屋から脱出してからの方がメインのストーリーとなるので、「SAW」とか「cube」とかの派生は正直飽きたよという人でも楽しめるかと思います。単に理不尽ゲームものとして見ても、エロゲという媒体の強みを最大限に生かした冷酷無比な内容となっていますので、年齢制限なしの映画とは一線を画すかもしれません。

 

私の攻略順は以下の通り

「凛音様」(澄ました顔しやがって、犯してやる!)

 ↓

「鼻フック先生」(ストーリーにあんまり関わらなそうな女だ!早めに犯してやる!)

 ↓

「梨香ちゃん」(うざい女だ!手酷く犯してやる!)

 ↓

「合歓ちゃん」(敵の本丸だ!犯してやる!)

 ↓

「叶」(かわいい幼馴染だ!犯してやる!)

本当は最初に5ターンで複数人を犯すルートに行ったんだけど、全くストーリーが進まなかったので含めてません。ただ、この時に凛音様の綺麗な顔が苦痛に歪む姿を見たくなったので最初に凛音様を選んだっていうのはあります。

 

出てくるプレイ内容はこんな感じ。

電気椅子、緊縛、鞭打ち、首吊り、フィスト(拳)、ギロチン、鼻フック、筋弛緩剤、下剤、スパンキング、舌攻め、キスイキ、水槽、生配信、うんこする、うんこさせる、おしっこ、チューブ連結循環、食ザー、サンドイッチ、異物出産、犬、人間洗濯機、便女、まだまだ沢山。

読んでるだけで楽しくなる身の毛もよだつような素敵なラインナップです!

ほとんど天才が考えたとしか思えないようなプレイや緊縛方法が沢山あり、なんというか人類の英知というか、人間の業の深さみたいなものを感じます。変態は偉大ですな。

お気に入りは合歓ちゃんとのキスイキのシーンでした(私は割とノーマルなのだ)。このシーンをアイス(ねっとり濃厚なやつ)を舐めながらやるとすごくいい感じです。

キツかったのは、チューブ連結循環、人間洗濯機、便女あたりですね。興味深くはあるのですが、トイレに行って少し考えてみて、やっぱりキツいです。

 

これらのプレイを全力で演じ切る声優さんに敬意を表します。ガチすぎる絶叫、奇声、異音の数々に引き攣った笑いが顔から剥がれませんでした。こういうマジのガチの本気を感じられるの大好きです。

 

 というのがeuphoriaの前半の話で、このゲームが名作たる所以はむしろ後半にあるのですが、後半はゲームの面白さを損なう類のネタバレなしでは語れないので未プレイの方は読まない方がいいです。休憩を挟んで後半について書きます。

 

休憩 特撮 「アベルカイン」

どっちを!選べど!獣のように生きていくだけ!

 

 

 

 

ここから後半です。物語の核心に触れるネタバレを含みます。

 

後半は、叶が黒幕だったこととか、本当は合歓が幼馴染だったんだけど恵ちゃんは記憶を弄られて分からなくなっていたこととか、全ての事情を踏まえた上でトゥルーエンドでの「叶」と「合歓」について書きたいと思います。

 

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まさか叶が黒幕だったとはねー。人間洗濯機とか体張りすぎなおかげでまんまと騙されました。

でもまぁ、「恵ちゃんの肉便器」になってしまった叶よりは黒幕としての白衣の叶さんの方が素敵で欲情します。「恵ちゃんはモルモットなんだよー」と種明かしする時の叶の楽しそうなこと。

全てが演技だったと知ってからだと、地下ゲームの時の叶の言動も別の味わいが出てきます。後に恵ちゃんのことを「最初から最後まで大嫌いだった」と言うその口にどれだけ奉仕され、甘やかされたことか。地下ゲーム中の叶の気持ちを考えるとどこまでも妄想を広げられそうです。

 思うに、叶がやりたかったのはミルグラム実験とかスタンフォード監獄実験みたいなことで、権威や場の空気によって思考を停止し、己をなくす普通の人々のように、恵ちゃんが快楽の虜となって完全に叶の操り人形になるように仕向けてたんです。

叶は基本的に、「人の心なんて簡単に操れる」と思ってる娘なんです。自分は恵ちゃんの奴隷だと言いながら実際のところは恵ちゃんの方を奴隷(または犬)として調教してたんですね。

地下ゲーム終了後の学園で非道の限りを尽くしてたように思えるモブたちを見たときは、「なんだ、モブの方が恵ちゃんより鬼畜じゃないか」と思ったものですけど、あれは、おそらく洗脳されていただけで、モブ共は仮に元の世界に戻ることができて学園内での行いを罪に問われたら、ふてぶてしくも無罪を主張するアイヒマンなんです。

その点恵ちゃんは地下ゲームの時から一貫して、「ルールだからしょうがない」とか「自分も被害者だ」みたいな思考に流されず、「自分は加害者であり、自分の意思で犯したいから犯すのだ」というスタンスを崩さなかったため、叶の思い通りにはならない自分を保つことができたんですね。その辺がモブと恵ちゃんの一味違う所です。

ミルグラム実験(奇しくも叶の5ターン目と同じ電気です)で電圧を最大まで上げながら

「気持ちいいっていうんだ、叶、気持ちいいだろ?」

なんて言う被験者がいたでしょうか?そんな外道は恵ちゃんしかいねぇ。

 

どうやっても思い通りにならない、行動が理解できない恵ちゃんは研究者としての叶にとっては苛立ちの種であったのかもしれないけれど、同時に、どうしても達成したい課題みたいなものでもあったのかもしれません。

叶が最終的に合歓を施設から連れ出すという不合理な選択をするのは、恵ちゃんと同じ「愚かな」行動をとることによって恵ちゃんの思考を辿り、恵ちゃんを理解したかったのかもしれません。

(それって好きってことじゃん。)

 

 合歓

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 黒幕と見せかけて実はメインヒロインだった合歓ちゃん。

時期「眠り姫」として生まれ、ただただ現実に絶望するように仕向けられ、人間の醜い部分だけを見せられ続けてきた不幸の塊のような女の子。ただ、恵ちゃんと出会うことがなければ本当に決定的な絶望はあり得なかったんじゃないかと思わんでもないです。喪失による絶望は何よりも強烈だから。

(合歓ちゃんを絶望させることだけ考えるなら、叶が「賭け」のために恵ちゃんを生かしたのは失敗だよなぁ。そのころから叶は恵ちゃんに対して思う所があったのか。単に調子に乗って遊び過ぎただけか?あるいは、叶は親に捨てられた境遇から「失う」よりも「恵ちゃんに殺されるほど憎まれる」方がより合歓ちゃんを絶望させられると思ったのかも。)

で、恵ちゃんの命を救うために「恵ちゃんに殺されるほど憎まれる」方を選んだ合歓ちゃんは地下ゲームで恵ちゃんを煽ったり、学園を地獄にしたり、凛音様を便女にしたりします。なんか、そこまで実行できるあたり本当に恵ちゃん以外の現実には絶望してて、恵ちゃん以外はどうなってもいいんだなという感じです。

恵ちゃんに対してはこの上なく純粋でありながら、それ以外の現実に対してはどうしようもないくらいの悪意を抱き、それを実行する合歓ちゃんが素敵。

で、結局賭けには勝って、恵ちゃんと共に合歓ちゃんの楽園に繋がれることになってハッピーエンドでも良かったのだけど、恵ちゃん曰く

「俺たちは『楽園』に行く資格はない」

とのことで、あくまで現実の合歓ちゃんと幸福になることを選択し、合歓ちゃんの世界から出て行ってしまいます。

このセリフ、最初はいまいちピンと来なかったんだけど、恵ちゃんと合歓ちゃん両方とも生きているのだから、俺たちはまだ現実には絶望しきってはいない、みたいな意味かなぁ。(「俺は」ではなく「俺たちは」なところがいいですね。)

もしかしたら、合歓ちゃんの世界に繋がれた恵ちゃんが、見えている幸福な世界が現実ではないことに気付くことができたのも、合歓ちゃんが(無意識に)恵ちゃんと現実の世界に戻る「可能性」を残したのかもしれません。

 

最終的に(おそらく叶の手により)全ての記憶を失い大人幼女になった合歓ちゃんと再会したところで物語は終わります。何で記憶を失ったかについてはいろいろ考えられると思いますが、(合歓ちゃんが絶望し過ぎて施設から出たがらないから、とか、仮に組織に捕まったとしても「眠り姫」としての利用価値をなくすため、とか)結局物語は終わってもまだ2人は逃亡者の身であり、受難が終わったとは思えません。

選んだ道は決して楽ではないと思われますが、2人のその後は記憶の失った部分を幸福で満たして行ってくれたら素敵ですね。

 

 

どんなに現実が絶望的でも、何物にも支配されない不屈の精神さえあれば、意外と何度でもやり直しが効くのかもしれません。

 

ED 青葉りんご 「楽園の扉」


euphoria -楽園の扉-

清廉潔白なヒロインの下には死体が埋まっている 罪の光ランデヴー

エロゲ、「罪の光ランデヴー」やり終わりましたよー。いえー。

 

この時買ったやつです↓

urutakonbe.hatenadiary.jp

 

 

私、ちゃんとエロいエロゲをやったのは初めてなので、(昔、クラナドは、やったけれどあれはエロくなかったし)なかなか新鮮で、楽しくプレイすることができましたー。

 

気付けばクラナドから10年以上の月日が流れていることに驚愕しつつ、書いていきましょう。

あ、ネタバレあります。

 

エロゲブランク10年の身としてまず思ったのが、背景の美しさとか、キャラクターの表情やポーズが多彩で場面に合わせてくるくる変わる感じが非常に進化してて、正直それだけでも楽しめるくらいのクオリティーになってるすげぇ、ってことです。

背景は単に緻密になって解像度が上がったとかではなく、ちゃんと美しく見えるように構図とか光源の位置とかまで考えられていて、かつ、イヤミでない、ずっと見てられるような絵になっています。何度か同じ場所でのシーンがあっても何度でも「うわ、綺麗!」と思えるクオリティーですすげぇ。

画面上を桜が舞う演出とか、歩きシーンがアニメになってたりっていうのもあの頃はなかった(と思う)演出だったので、「桜散ったー!」「歩いたー!」と、いちいちビックリしながらのプレイでした。

 

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メインヒロインは左から「あい」「風香」「円来」の3人。

3人とも巨乳です。(「風香」は比較的小さいとはいえ、十分巨乳の範疇)

 

で、3人それぞれの「罪」をテーマに物語が紡がれます。

罪と言っても犯罪とかではなく(一部犯罪かもしれないけど法律に詳しくないのでわからん)、非道徳的とか、周囲の期待を裏切る行為、というレベル。

何が罪か、というよりは罪とどう向き合うか、どう折り合いをつけるか、みたいな話。

 

自分の行いが

→罪になるからやめる、のか

 →罪と知りつつ突き進む、のか

  →罪であることを逆に利用する、のか

 

いろんな選択肢の中から自分とパートナーにとっての最良の結末を模索していく姿は青春という感じ。一度は「罪になるからやめる」選択肢を選んだとしても、なんやかんや「罪と知りつつ突き進む」選択肢に進んでくれるのが痛快で素敵です。なんだかんだ言っても本当の望みはそこにあると思うから。

(風香、円来ちゃんルートはそんな話かなぁ。背負った罪をどう処理するかの違いはあれど。)

 

で、「罪であることを逆に利用する」のが、あいちゃん。

多少語弊はあるかもだけどそんな感じ。あいは、主人公の野々村と、「罪によって繋がること」を求める。

野々村に自分のことを覚えていてもらうために罪を犯すっていうのは、ある種の承認欲求でいいのかしらん。

誰でも時には、「嫌いな人」とか「嫌いな上司」への呪詛が頭の中をグルグルと回って離れなくなることってありますよね。その相手の立場で考えた時に、たとえそれが憎しみだったとしても、四六時中自分のことを思っている人がいるっていう状態に喜びを覚える心理っていうのは実際にあるんだろうなぁと思いまして。

要はそれって解釈によっては、自分はその人にとっての「特別」ってことになるから。

あいちゃんはたぶん、ちょっと孤独でいる期間が長すぎて、自分と向き合う時間があまりに長すぎて、遂には「罪の繋がり」に喜びを感じている自分を見つけてしまったのかもしれません。罪に魅入られてしまったのですね。

流石のこじらせ具合で素敵だとは思いますけれど、とんだ地雷女ですね。

まぁでも、好きですよあいちゃん。おっぱいでかいし。

そんなあいちゃんの物語がどんな結末を迎えるかっていうのはこのエロゲの見どころですね。

 

あと、メインヒロイン3人以外にもサブで「セリカ」と「深柑先輩」が出てくるのだけれど、2人とも凄いいいキャラなので、この2人のシナリオもあったらよかったのにと思ってしまいます。

 

セリカ」は野々村と結ばれなくていいから、うまいこと円来ちゃんと一緒になるルートが欲しかったなぁと妄想します。そのためだったら途中から主人公はセリカに交代とかでも良かったのになぁ。セリカの野望ルートとか。

(要はレズプレイが見たかったのです。)

 

時折挟まれる深柑先輩の、淡々としているようで実はすごく優しく、実は凄く熱いキャラクターが、暗い展開も多いこのエロゲの凄い癒しになっていたので、深柑先輩には凄く愛着があります。(ストーリーに大きく関わってこないからこその癒しでもあったのかもしれないけれど)ただ深柑先輩はどうやったら落ちるんだろう?知的好奇心の塊みたいな人だから、野々村が「お互いの裸をデッサンしましょう」とか持ちかけたらなんやかんや応じてくれないだろうか。

(要は淡々とした先輩が乱れる姿が見たかったのです。)

 

えー。

人と人が「罪」で繋がるっていうのは好きなテーマで、なじみ深いもので言えば「ルパンと銭形」とかも罪の繋がりで結ばれてたり、古くは「フランケンシュタイン博士と怪物」の関係まで遡ることのできる人類普遍の生れ出づる悩みですからね。とはいえ、「罪」のテーマって一般的には「道徳的」「常識的」な立場からしか語られることがないから、あんまり本質に迫るものは少ないって気がします。

そういう所に、「道徳」のしがらみから解放されたエロゲという媒体で切り込んでいくっていうのはすごくいいなぁと思いました。(まぁ、そんな意図があったかは知りませんけど)

そういえば「背徳」と「エロ」っていうのは相性抜群の黄金コンビだと思ってたんですけど、なんか作中ではセックスがえらく肯定的に扱われていて(風香シナリオだけちょっと背徳的だったけど)あれぇ?って感じでした。でもよく考えると小説とか映画とか、なんならAVでさえセックスに対してこんなに肯定的なことってないから、逆に新しいのかもしれない。うーむ。

 

あと、ちょっと気になったことがあります。

 作中の村では最初のシーンから、最後のシーンまでずっと「桜」が舞っています。

ゲーム内で季節が巡る描写はありませんが明らかに数週間の物語りって訳ではなくて、どう少なく見積もっても数か月は時間の経過があるはずなので、(ただし1年は経ってない)その間ずっと桜が咲いてるっていうのはおかしいのです。

(演出の関係上綺麗だからと言ってしまえばそれまでですが)

で、考えたのですが、「桜」は罪上に立つ美しさの象徴だったのではなかろうかと。

これって完全に梶井基次郎桜の樹の下には」式なんですけど、

青空文庫のリンクを張ります。短いし面白いので読んでみてはいかがか)

梶井基次郎 桜の樹の下に

要約すると、

桜ってちょっと綺麗すぎてどうにも嘘臭く、恐ろしく感じる。何の負い目もなくこんな風に咲き誇る花などありえない。きっと桜の樹の下にはおぞましい死体が埋まっていて、そこから養分を得ているからあんなに綺麗に咲くことができるのだ。そう考えれば私も納得して素直に桜を楽しむことができる。

みたいな話。

 

エロゲのヒロインも同じようなもので、純真無垢、清廉潔白で完全無欠なヒロインなんてあり得なくて、その背後に数々の「罪」を背負いながら可憐な笑顔を振りまいているのかもしれません。

作中で桜がずっと咲き続けているのは、

少女たちが自分の罪を受け入れ、各々の未来へと歩んでいく姿を、死体の上で咲き誇る桜に見立てたのかもしれません。

 

(いや、そんなことはないか。)

 

BGM

天野月子 「翡翠(A moon child type)」


天野月子 翡翠(A moon child type)

変態文学で紐解く 「堕落論」 あなたは美しい

坂口安吾堕落論」を読みましたので、書きますよー。いえー。

 

えー、「堕落論」に先立ちまして、ひとまずフランス文学の話をしましょう。

っていうのも、「堕落論」もそうなのだけれど、安吾さんは考え方が非常に独特で、どういう過程を経ればそこに至るのか謎。みたいなところがあるんですけど、”フランス文学を学んだ”経歴があるそうなので、(ソースはwikipediaの”フランス文学を学んだ”という一文だけなので、ほとんど私の妄想ですが)そこから堕落の思考を紐解いてみたいなーと思ったのです。

 

私ね、「変態文学」はちゃんと集めようと思いながら日々の読書に勤しんだり、本屋を回ったり、ネットサーフィンしてるんですよ。

で、古今東西の変態文学を漁り、結構増えてきたなーと思って、ある日並べてみた時に気付いたんですけど、どういうわけか並外れた変態文学はかなりの割合でフランス人の手によって生み出されているっぽいんです。ラブレーとかサドとかジュネとかマンディアルグとかバタイユとか、これでもまだごく一部だと思うんだけどそうそうたる顔ぶれです。(ただし、私が無意識にフランス人から選んだ可能性もあるし、澁澤龍彦あたりのおかげでエキセントリックなフランス文学に触れることが容易な日本になっただけって可能性もあるのだけれど、まぁ、そうなのです。)

 

当然集めるだけじゃなく読みもするのだけれど、常軌を逸した変態文学にある程度親しんでくると、どういうわけか変態文学の中に一般文学では得られないある種の「感動」を見つけることができるんです。

でも、変態文学の中で描かれる情景で感動的なことなんて一つもないのです。そりゃあうんこ食べる話に感動するわけがなくて、なんだかんだ言って私だって何らかの「美しさ」みたいなのに感動するんじゃないでしょうか。

そう、変態文学には謎の美しさがあるのです。

執拗に繰り返されるうんこを食べる話の中に謎の輝きを見つけることができるのです。

 

自分の中で起こっている感情なのに、この感覚っていうのは説明のつかない部分があったのだけれど、思うに、「堕落論」に書かれている意味での「美しさ」だとか「文学のあり方」を感じる時の感覚に近いのではなかろうかと思ったのです。

 

堕落論 (角川文庫)

 

 安吾さん曰く

 

生きよ堕ちよ、

 

道徳も倫理も政治も人を幸せにしないし、「わび」も「さび」もよくわからないし、世間は「それっぽい」ってだけの理屈でホンモノか否かを断じ、嘘で塗り固められたニセモノをもてはやしているものである。

自分が何かを「正しい」と判断するとき、それは本当に自分の判断だろうか?

「道徳」という根拠のない正道が、「倫理」という訳の分からない規範が、「世間」という誰でもない誰かが、下した判断を自分のものと勘違いしてはいないだろうか?

人が大人になる過程の中で「自分の感性」が「道徳」だとかの訳の分からない判断基準に騙されて、本当の願望とは全く逆の行動を取らされているとしたら、こんなに苦しいことはないではないか。

 

直ちに堕落してやり直すべきだ。

 

「道」を踏み外し、「理」に尽きず、「世間」に背を向けてみて初めて、何物にも左右されない「自分の感性」でものを感じることができるのである。

清貧は欺瞞であり、贅沢は素敵だ!

 

はい!

 

で、フランス文学の話に戻りましょう。

とりわけ変態文学っていうのは、堕落しきった地獄のどん底で紡ぎだされた、外道、理不尽、反社会に満ちた現代まで続く呪いみたいなもんです。サドなんか貴族の産まれでありながらバスティーユに収監され、獄中でこそこそと文章書いてた人なわけで、サドが残した文章っていうのはそんな過程で成り立ってるわけです。さらにあの内容なわけですから、そこには嘘も、見栄も、建前も、恥も、外聞も、守るべきものなんてありえない。

そのクラスの変態文学というのはまず間違いなく、類まれな堕落者たちの「むき出しの感性」なのです。

「むき出しの感性」が時代も距離も飛び越えてしっかりと伝わったからこそ、本来美しさなんかとは無縁のはずのうんこを食べる話に私は「己を偽らない真実の美しさ」を見たのかもしれません。

 

 

 しかしながら、捕捉が必要かと思います。

堕落しろっていっても、正しく堕落しろっていうのが結構重要なのです。

堕落三昧で本能むき出しやりたい放題の淫蕩生活でみんなハッピー、って話ではないのです。その辺のニュアンスが難しいのだけど、断じて違う。畜生道に落ちろって話ではないのです。

 

その証拠になるか分からないけど、「堕落論」を実際に読んでみるとたびたび思うことがありまして、社会通念と真逆の思想を展開したり大御所の作家先生を批判したりしてばっかりいる安吾さんですけど、この人ってたぶん誰よりも優しいんです。優しくなかったら「生きよ」とは言わない。

フランス文学で言っても、堕ちるところまで堕ちきっているように思えるサドだって変態プレイはしたかもしれないけど殺人はしなかったそうです。(優しかったかどうかは知りませんが、この人は変態性を人ではなく紙にぶつけてたんですかね。)

 

で、考えたんですけど、「正しく堕落しろ」っていうのは、堕落し、堕落によって露わになったむき出しの自分としっかり向き合い、自分や他人が変態であることを肯定することができる懐の深さ持てってことな気がします。(「変態」の部分はいろんな言葉に置き換え可能です。「性悪」とか「節操無し」とか「甲斐性無し」とか「小悪党」とか)

 

「世間」曰く、変態とは悪であり、存在自体が罪である。

で、自分もそう思い込んでいるならば、自分の中に変態性を見つけたときにつらくなる、他人の変態性を許せなくてイライラするって訳です。ギャップの苦悩です。

だとしたら、自分の変態性を感性の一部として認め、仲良くやっていくことができたなら、そんな苦悩はさっぱりなくなるんじゃないでしょうか。他人に対しても、分かったような顔した道徳の人なんかより、真に優しくなれるんじゃないでしょうか。

なんというか逆説的性善説?違うか。

 

えー。

 

堕ちて、

どんなにみっともなかろうと、

生きて、

醜態を晒し続ける人は、

実は真に美しく、優しいのかもしれません。

 

 ED 中森明菜 DESIRE

(真っ逆さまに堕ちて desire)


DESIRE-情熱- / 中森明菜

メイドカフェ”Lost Kingdom”で私がドクターマンハッタンになるまでの話

先日初めてメイドカフェなるものへ行ってきたのでその感想でも書くよー。いえー。

久しぶりに日記を書いたらオープニングまでが長い映画みたいな形式になりました。ご容赦を。

 

では。

 

なんやかんやあって一人で東京で1日遊ぶことになった私は大した下調べもしないまま、「秋葉原とか行けばなんかあるんじゃね」くらいの気持ちで秋葉原へ繰り出したのである。

荷物をロッカーに預け、財布と携帯だけ持って、いざアキバ!

アニメキャラたちの見下ろす通りを一人ふらふらと歩く。一通り回ってみて気付く。あれ、意外とやることねぇな。

私ゆうてアニオタじゃねぇし、パソコンとかそういう電気のオタでもねぇじゃないか、私は秋葉原に何をしに来たのか、私の東京での休日は何の目的もないままただ歩いて終わるのか!と絶望が垂れこめる。

進むべき道を失い失意の中で天を仰ぐ私。空は雨。建物の壁には誰彼構わず微笑みを投げかける二次元の少女たち。

ん?雨、と、少女?   少女が、 濡れる?

 

そうだ!エロゲだ!エロゲを買おう!

 

進むべき道をおっぱいが照らす(意味不明)。そうと決まれば目指すところはソフマップだ。ソフマップに行けばエロゲが買えて、ついでにムチムチの水着のおねぇちゃんにも会えるはずだ。(ムチムチのおねぇちゃんはいませんでした)そんなこんなでたっぷり1時間くらい悩んだ末に1本購入。因みに私はエロゲを買うのは初めてである。エロゲ童貞を捧げる相手を選ぶためには1時間くらいはかかるものなのである。

 

装備が財布と携帯とエロゲになった。

 

入念にエロゲを選んでいたら時間は既にお昼時をだいぶ過ぎている。腹がすいたのでメイドカフェでも探すことにする。メイドカフェに行けばオムライスとかにありつけるものなのである。

 

再度街へ。

 

ソフマップを出ると雨が止んでいた。通りを行けばそこかしこでメイドさんがビラを配っている。それを無視して通り過ぎていく通行人が随分と冷たく見える。よしよし私がもらってあげよう、でも最終的には顔で選びますからね。私は下衆なのである。(というが、事前に下調べをしてないのだから顔で選ぶしかないではないか)

しかしながら、私はビラを回収しているだけなのにメイドさんたちはありがとうありがとうと感謝の言葉で見送ってくれる。あんまり感謝されるとこっちもなんかいいことしているような気持ちになってきた。嫌だ!これでは私がいい人みたいだ!つらい!これは早急に決めねば!

 

とか思ってた頃に「メイドカフェをお探しですか?」とちょっと踏み込んでくれるメイドさんが現れる。そうなんですよー。

「この辺り、うちの系列のお店がいくつかあるんですよー」といくつか紹介してくれる。「ここが〇〇モチーフのメイドカフェで・・・」という具合。へー。メイドカフェにもいろいろあり、ここまでの道のりで私がメイドさんだと思っていた人たちは一概にメイドさんというわけではなく、お店のコンセプトによってなんかいろいろあるらしい。話しかけてくれたそのメイドさんはマリオネットだった。

 

それにしても麗しいマリオネットだったので「あじゃあ、ここにしますー」っつったら、なんかお店まで一緒に連れて行ってくれるという。マジかよ、こんな綺麗な娘さんになら私ホイホイついていっちゃうぜ。

お店のコンセプトが人形っていうのもいいよね。人形っつったらあれだろ。四谷シモンとか天野可淡とかハンス・ベルメールとかのあれだろ?最高じゃねぇか。(違いました)

 

初対面特有の当たり障りのない会話を楽しみながらお店へ向かう。 

 

大通りからちょっとだけ外れた路地、とある建物の4階にそのお店はあった。

 

エレベーターの扉が開き中に入ると、マリオネットたちが笑顔で出迎えてくれる。

 

「おかえりなさいませ。ご主人様!」

 

「ただいま」

 

そのメイドカフェの名は”Lost Kingdom”と言った。

 

OP ROLLYと絶望少女達 「マリオネット」

 

 初めて帰宅するご主人様にはまずはお店のコンセプトを説明をしてくれる。

それなりに長いLostKingdomの物語をじっと私の目を見つめながら話すマリオネット。マリオネットがカンニングをしないようにずっと見つめ返す私。そのままノーミスで語りきるマリオネット。見事!

ずっと目を合わせてるのが楽しくて正直内容は全然頭に入ってこなかったけど、自分がマリオネットたちのご主人様であることと、おさわりセクハラは禁止だということは分かった。ご主人様も万能じゃない。

 

説明が終わったらさっそく注文だ。

電気ブランがあるじゃないか。珍しい。飲み物は電気ブランで、食べ物はガッツリボリュームのあるやつはあるかと聞くと。それなら裏フェニックスなるオムライスがおすすめなのだという。(やはりオムライスか!)では裏フェニックスをお願いする。

 

 裏フェニックスができるまでの間マリオネットとおしゃべりすることができた。

しかしながらリアルの私は掴みどころがなく正直かなり話題に困る人材だ。

そんな相手と会話しようとしたときに相手の持ち物から話題を探そうとするのは当然の流れであっただろう。

「今日は何買ってきたの?」とマリオネットが尋ねる。

来た、この質問。前述したとおり私の持ち物は財布と携帯とエロゲだけだ。

普通に答えていいのか?引かれはしないか?と一瞬逡巡したものの聞かれたのだからしょうがない。引かれてみるのも楽しかろう。

私「…エロゲです」

マリオネット「エロゲ買ってきたんだ。いいなぁ!見ていい?」

私「?!」

 

一瞬で悟った。ここの倫理は下界とは異なる。ここはエロゲが「普通に」存在する世界だ。(あるいは秋葉原全体がそうなのかもしれないけど)

普段私が交流することのある女子って、「オタク=キモイ」と無条件で判断するタイプのパブロフちゃんなので、このやり取りは衝撃的だった。

まさかこんな可憐なマリオネットとエロゲの話ができるとは。世界は広い!

マリオネットさんは「みさくらなんこつ」とかのエロゲが好きで、「School Days」とかやってみたいのだという。なんて素敵なチョイスだ。

 

世界の広さを感じているうちに裏フェニックス(オムライス)が出来上がった。

ケチャップでお絵かきしてもらった。(ミクちゃんだ!)

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食べる。なんてこった、どえらいうまいじゃないか。

なんかメイドカフェの食事ってこう、チャチなオムライスを法外な値段で出すものだという謎の偏見があったのだけれど、全然そういうのじゃない。

ライスにとろとろのチーズが絡めてあってねっとり濃厚で凄くおいしい。しかもなかなかのボリュームだ。料理へのこだわりを感じる一品だった。

 

そのあともマリオネットたちのプロフィールを見たりしながらまったりしたり、マリオネットたちが代わる代わるおしゃべりしに来てくれたりと楽しい時間を過ごすことができた。メイドカフェとかって「写真詐欺」というかプロフィールに惹かれて、実物を見てがっかりみたいなこともあるのかと思ってたけど(私は偏見の人なのだ)、みんなプロフィールの写真通り(あるいはそれ以上に)可愛らしかった。

エロゲの話をしたり電動工具の話をしたりメイドカフェ巡りしてみると楽しいよとか教えてもらったり話題も豊富かつ偏ってて素敵だ。

 

気分がいいのでマリオネットと一緒にチェキを撮ってもらう。中二病ポーズをリクエストしたらえらいクオリティーの高い中二病ポーズで撮ってくれた。

チェキが取れたら落書きタイムだ。「なんか中二病な名前考えて」とのことだったので考える。マッドサイエンティストな感じがいいけどなんかあるかなぁ…。

ドクター…。ドクター・ストレインジラヴ、は分かりにくいよなぁ。

 とか考えてる間にも落書きは進む。あんまり待たせるもんじゃないな。

「ドクターマンハッタンでお願いします。 」

ウォッチメン (字幕版)
 

 我ながら謎のチョイスをしてしまった。ドクターマンハッタンて「ウォッチメン」の”ォ”の下にいる全裸の青いやつだぞ。

ま、まぁいいか。「ウォッチメン」面白いし。

 

チェキも撮って満足したのでそろそろ会計だ。

それなりに長いこといたのでまあまあな値段だったけど、楽しかったからいいや。

会計が終わるとエレベーターまでマリオネットが見送ってくれる。

今日はありがとう、インフルエンザに気を付けて、花粉症に気を付けてとねぎらいの言葉をもらいながら帰路につく。

 

私が東京に来る機会はあまりないけれど、機会があればまた来れたらいいなと思った。

 

そうだ、今回買ったエロゲが楽しかったら次はマリオネットのおすすめの「みさくらなんこつ」のやつを買おう。

 

建物を出て見上げた秋葉原の空はすっかり晴れ渡っていた。

 

ED 谷山浩子「そっくり人形展覧会」


『「そっくり人形展覧会』 (谷山浩子)

あなたとは分かり合えない 超人幻想 神化三十六年

戦後に思いを馳せる今日この頃。

かつて「戦争を知らない子供たち」だった若者たちも、もうジジイになり、闇市で残飯シチューを買い求めた人々も、もはや存在するのかさえ不確かです。

敢えて語られることの少ない戦後とは、一体どんな時期であったのか。

この本はそれを知る一助になるのでしょうか。

 

超人幻想 神化三六年 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

この本はですね、アニメ「コンクリートボルティオ」(とても面白い)の前日譚として書かれたモノでありまして、アニメの世界観を補強する意味でも、昭和(作中では神化)への造詣を深める意味でも、いい読書でございました。4月から2期も放送するし。

(戦後を知りたいと思ったときに、戦後を背景とした物語から入るのが私のアプローチなのです。なんというか、その方が、人間が動くので。)

 

あらすじ!

時は神化36年。戦後16年、GHQによる占領が終了して9年。テレビの黎明期であるこの時期、TTH(東京テレビ放送)の局員として働く木更賀津馬が巻き込まれる凄惨な事件とは!殺戮は回避できるのか!?そして、超人とはなんであるのか!?

脚本家、會川昇氏による昭和史への深い造詣と、往年のSF要素をふんだんに詰め込まれた特濃残飯スープ!

あらすじ終わり!

 

残飯スープと書きましたがこの本を貶める意図は全くありません。いろんな要素をこれでもかと詰め込みながらどれも中途半端にすることなく1つの世界観にまとめ上げる手腕には「なにこれすげぇ」と言わざるを得ません。しかし、ちゃんとまとまってるなら残飯スープじゃねぇじゃんとも思えてきたので、調和のとれた残飯スープと言い直しましょう。ええ、長靴いっぱい食べたいですね。

 

この本の世界観は実際にその時代を体験した人なんかだとなつかしさを感じながら読むことが出来るのかもしれませんが、平成生まれのゆとり世代である私からするとほとんどファンタジーのようでした。

路面電車が走る東京にもネオンは輝くけれど、そこに確かに敗戦の名残もあり、裏ではGHQなんかが怪しい動きをしているっていう、得も言われぬいかがわしさ。技術が発達してないが故のテレビのあわただしさとか、諦観しているようで全然そんなことなく熱い夢を胸に秘めている登場人物たちとかが凄くいい。生きてるって感じです。

手塚治虫が美少女になっていて、その才能に自分だけが気付いてあげられるなんて最高に燃える(萌える)シチュエーションじゃないですか。(厳密には自分だけが気付いてたわけではないけれど)その才能を世に知らしめたい願望と、自分だけのものにしたい欲がせめぎ合って心と体が分裂しそうです。

戦後という時期は、あんまり物がないし、支配された経験からくる卑屈さというか疑り深さみたいなものがあるんだけれど、ここからいろんな才能が開花させ文化や風俗を生み出していくのだという野心や希望みたいなものを感じます。(これは宝塚明美=手塚治虫だと知っているから思うだけなのかもしれないけれど。)

 

超人の話をしましょう。

本作では超人が出てくるのですが、タイトルの割に超人の登場シーンは少ないように思います。「超人」を描くというよりは「超人のいる社会」を描いた本であるような気がします。と言っても、超人は当たり前のようにその辺を歩いてるわけではなくて(いや、その可能性もあるんだけれども)、超人は確かに存在するということを誰もが知っているんだけれど実際に遭遇することは稀っていう存在のようです。そんじょそこらの芸能人よりはちょっと遠くて、ビルゲイツとかトマス・ピンチョンよりはだいぶ近い、美空ひばりよりもちょっと近い(当時の美空ひばりを知らんけど)ってくらいの印象。(コンレボではもっとうようよいるような印象だったけれど、時系列が違うからか)

かつて人々はテレビ放送された東京オリンピック(神化15年)で超人たちを目の当たりにし、なんやかんやで戦争を語りたがるタイプの老人たちは出兵先で見た超人たちを話のタネにするものだから、例え実際に見たことがなくても誰もがその存在を知っており、その英雄的なイメージは憧れの対象となったりする。一般人から見た超人とはそういう存在のようです。(ただし、時代の変遷とともにこの超人観も変わっていくものらしくこの価値観は神化36年のものです。なんてややこしいんだ。)

でも実際は超人は英雄ばかりって訳でもなく、暴走して味方を手にかけたりした者や、暴走しなくてもろくでもない者もいたわけで、「英雄的なイメージ」っていうのは「超人幻想」=「一般人が超人に見る幻想」であったのかもしれません。コンレボでは「超人の見る幻想≒正義」みたいな意味で認識していましたが、作中の未来の日本では超人自体が幻想(架空の存在)のようになってしまっているので「幻想としての超人」(超人など幻想に過ぎない)みたいな意味にもとれそうだし、「超人幻想」っていうタイトルにはいろいろと含みがありそうです。

 

で、少なくとも、それぞれの「超人幻想」は決して交わることはない、ということだけは確かであるように思います。

 

だとすれば、それぞれ決して折り合いのつかない幻想を抱えた物語は一体どのような展開を迎えるのでしょう。何らかの答えが提示されるのか。あるいはやっぱり折り合いはつかないのか。それってどっちにしてもちょっと悲しい!

物語がどう転んでいくのか全く想像のつかないコンレボ2期が超楽しみです!

 

結局のところ信じられるのは自分だけ!

 

BGM はっぴいえんど しんしんしん

(コンレボははっぴいえんどでおわるのかしら)


はっぴいえんど - しんしんしん (1970)

江戸川乱歩「双生児」 カフェオレ式による人類の救済

角川ホラー文庫から出てる短編集の「双生児」を読みましたよー。

変なものを愛でるタイプの人々にとって江戸川乱歩は基本中の基本って気がします。でも私は実はあんまり読んでないので、そこんとこちゃんとしようと思って今回食指を伸ばした次第です。

 

双生児 (角川ホラー文庫)

 

あらすじ!

江戸川乱歩の短編より一人二役モノ「双生児」「一人二役」「ぺてん師と空気男」「百面相役者」「一寸法師」を収録したコンセプト短編集。もしあの人に成り代われたとしたら何をして遊びますか。

あらすじ終わり!

 

一人二役モノを集めたっていう触れ込みの割には一人二役が主題じゃない話もいくつかあって、少々こじつけ感がないではないが面白いのでOK。個人的には「江戸川乱歩」と「一人二役」というキーワードでポーの「ウィリアム・ウィルスン」みたいなのかなと想像したけど読んでみたら全然関係なかったぜ。

 

 あと、古い日本の本って水戸黄門式で勧善懲悪を尊しとするものなのかと思ってたのだけれどそうでもないんですね。(むしろ勧善懲悪を尊しとしなかったからこそいつまでも新鮮で今まで楽しく読むことができるのかも)

 今回読んだ本に関して言えば勧善懲悪を尊しとしないどころか悪の方が魅力的に描かれてた気がして、サド式の勧悪懲善とまでは行かなくても、悪役側の方に随分とヒロイックな印象を受けました。死に際に遺恨を残す双子の片割れ、自分の遊びに他人を巻き込んで憚らないペテン師や、かたわの身でありながら闇夜に暗躍する大悪党の一寸法師、まるで得体のしれない百面相役者。

こうも揃いも揃って素敵だと、江戸川乱歩さんはむしろ犯罪者の側になりたかったんじゃないかと思えてきます。どうにかうまいこと世間を騙してあんなことやこんなことができないかと考え抜いた犯罪計画がうまくいかなそうなので推理小説にしたら世間を魅了することに成功した。みたいなサクセスストーリーを妄想します。いいなぁ。

 

江戸川乱歩の物語って思うに思考実験的なんですよね。まっとうに考えたらありえなかろうと、諸々の事情はなんやかんやクリアできたことにして究極の状況を作り出したとき人は何を思うのか?みたいなことが基本方針としてある気がします。妄想狂江戸川乱歩のあんなこといいな、できたらいいなが感じられてすごく楽しく読めます。。

 

双子だったら入れ替わりとかし放題じゃん、実際に入れ替わって自分じゃない自分として見る景色はどんなだろう?とか、あの人が自分に見せている顔と別の人に見せている顔は違うはずだ、別の人にはどんな顔を見せているんだろう?とか、昨日会ったあの人と今日会っている同じ顔をしたこの人は実は別人なんじゃないか?とか。

そんな素朴でくだらないような気さえする疑問、しかし実際の答えようと思うとなんか答えに窮する絶妙なところを突いてきます。あぁむず痒い。

ほぼありえないんだけれど、しかし絶対に無理かと言われるとそうは言い切れないような気もするからこそ、「ありえねー」と思考を放棄することなく「いや、しかし」と考えることができるのかもしれません。

 

あり得るようであり得ないような、分からないようで分かるような絶妙なフワッと感、白黒つけないまま中途半端を良しとするのが江戸川乱歩なのかもしれません。カフェオレですねぇ。

このカフェオレ感には西尾維新とかひねくれた感じの現代小説で出会ったことがある気がするんですけど、そんな昔からあったんですねぇ。

 

 

えー、ここでカフェオレ式の素晴らしさでも解いてみようかと思います。

私の憂いている現代日本の病として、「白黒病」がありまして、(病名は今適当に命名しました)要は、何でもけじめが大事であり、初志貫徹こそが素晴らしく、何事も無駄なく円滑に進めなければならず、無駄や中途半端は悪であり、悪は存在してはならない、みたいな風潮ってあるじゃないですか。

その価値観に照らして考えるに、私なぞ毛髪の1本すら存在してはならないことになるんですよ。なんてこったい。まぁ、私はそんなの関係なく無駄と中途半端の存在を愛してるタイプなので別にいいんですけど。

でも、無駄なく白黒はっきりした完璧超人なんてそうそういないにもかかわらず、こういう価値観が蔓延してるから鬱病とか心の病気になる人がいるんじゃないかと思います、立派な人たちは大変ですね。

しかしながら、私としては立派な人たちがどんなに心を病もうと関係ないし別にいいんですけど、あいつらは他人にも白黒を押し付けてくるから嫌いなんですよね。私が憂いているのはそこなんですよね。

どうにかして立派な人たちにいなくなって貰えないものか 。いや別に死んでほしいって訳じゃなくて、うまいこと白黒病患者の数を減らしてもっと日本が幸福にならないものか、って意味です。

 

で、第二次江戸川乱歩ブームの到来による日本人の救済なんてどうかと思うのです。

時は奇しくも江戸川乱歩の没後50年!TPPの網をぎりぎりで突破した江戸川乱歩著作権!歓喜する国民!群がる群衆!なんとなくブームだからというだけの理由で江戸川乱歩人口は増加の一途を辿り、知らず知らずのうちに国民たちは中途半端を良しとするカフェオレ式を体得するのです!したらなんか知らないうちに鬱病は絶滅し、祝福の花火が上がり、人類は幸福に包まれたのだ…。

みたいな。

 

これは非常に大げさに書きましたが、正直江戸川乱歩が人類を救済することはないですけど、特定の個人を救済するくらいならあり得る気もします。うん、なくはない。

 

 

そんなけったいなことを考えずに読んだって江戸川乱歩は超楽しいエンタテイメントなのだから、ただの暇つぶしでもいいし、イマドキの小説に飽きたなと思ったら読んでみればいいんじゃないでしょうか。

 なんせ著作権フリーだし。

 

BGM 筋肉少女帯 ペテン

 

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絶望と音楽 「ショスタコーヴィチの証言」 は正直かなり面白い

ショスタコーヴィチの証言を読みましたよー。

クラシックを齧ったことのある人ならば名前くらいは聞いたことがあるかもしれない、音楽史的にも重要な位置を占めるかもしれない書物をやっと読みましたー。いえー。

 ショスタコーヴィチの証言 (中公文庫)

一応先に書いておきますが、この本は記者のヴォルコフさんがショスタコ先生にインタビューした内容を纏めて、ショスタコ先生の死後にヴォルコフさんの亡命先で初めて発表されたという代物でございまして、その発表の経緯や書かれている内容から、当時より「ヴォルコフが創作した偽書なんじゃないか」との疑いをかけられているのです。で、私がネットで調べた限りは、「偽書っぽいけど全部でたらめって訳じゃない」というクソ曖昧なのが定説なんだそうです。

 

そうなんですけど、

私は「証言」に書かれている内容は全て「ショスタコ先生の語った真実」として受け取りたいと思います。(「実際にあった真実」ではないところが地味にポイントです)

理由は、そっちの方が面白いので。

私は別に研究者とかじゃないんで、真実よりも面白さの方が重要なのです。ショスタコ先生は「証言」に書かれているような人間であって欲しいというのが私の願いであり、過去は改編できるのがソ連式なのです。(ショスタコ先生に嫌われそうな考え方ではあるけど)

 

では、

 

あらすじ!

今語られる20世紀最大の作曲家ショスタコーヴィチの生涯!死臭に満ちたスターリン体制下のソ連で彼は誰と出会い何を思いどう生きたのか!?

あらすじ終わり!

 

この本、正直かなり面白いんですよ!

一応体裁として、ショスタコーヴィチは自分語りが嫌いなので、ショスタコーヴィチと関わりのあった他人について語ることによって、ショスタコ自信の考え方などについても明らかにしていくという書き方をされており、当時の芸術界隈や社会情勢、政治との関わりなどが包括的に語られて、ショスタコ先生の思う芸術のあり方みたいなことにも非常に深く言及されている超すげぇ本なんです!

ショスタコーヴィチと交友があったり、その人の作品から影響を受けた人々というのは例えば、グラズノフ、マリア・ユーディナ、トゥハチェフスキー、メイエルホリド、ゾーシチェンコ、アンナ・アフマートワ、ゴーゴリムソルグスキーなど他にもたくさん。逆に軽蔑の対象として語られるのは、スターリンやその不愉快な仲間たち、体制に媚びを売るくだらない芸術家などです。

その人たちについての忌憚のない率直な印象が語られています。たまにえらい大御所がdisられててびびります。例えばトスカニーニショスタコの解釈は全て間違ってるんだそうです。まじかー。

 

本の中でも非常に多くのエピソードが書かれているのがグラズノフなんですけど、グラズノフショスタコーヴィチの何とも言えない師弟関係は読んでて嬉しくなっちまいます。曰く「グラズノフの作品は正直退屈だが、それでもグラズノフは本当に偉大な伝説の音楽家である。」(意訳)。他にも、グラズノフはほとんど年を取ったでかい子供だとか、重度のアル中で授業中に隠れてウォッカを飲んでたとかのエピソードを語りながら、それでも本当に偉大な音楽家なのだと力説するショスタコ先生が微笑ましく、素敵です。

 

この本で初めて知った人の中で気になったのは、ピアニストのマリア・ユーディナ。曰く「ユーディナが弾くとどんな曲でも他の誰とも違う演奏になる」のだそう。気になったのでyoutubeに上がってるのをいくつか聞いてみたらマジでそうだった。なんというか、バッハがヴェルディみたいにドラマティックになってた。私はピアノ曲は疎いので他の演奏との比較はできないのだけれど、こんな演奏をするのはたぶんこの人だけだ。語られるエピソードも破天荒そのもの、「恵まれない人に自分の家をあげた」り「貰った金をすぐに恵まれない人に寄付してきた」り「スターリンにえらい不遜な手紙を送った」り訳が分からないけれど非常に愉快で痛快です。本の中でショスタコ先生が何の解釈も加えない相手はこの人だけだったかもしれない。

 

ゾーシチェンコ、アフマートワ、パステルナークらは作家、詩人で非常に気になる存在なんだけど翻訳されてる本がえらい少ないみたいで悲しいです。

 

 そんな感じで普通に楽しい話をそこかしこに織り交ぜつつ、それだけで終わるわけがないのがスターリン体制下のソ連です。

先ほど沢山名前を挙げたショスタコーヴィチと交友のあった人々ですが、そのほとんどは当局からの弾圧によって国外に亡命したり、失意のうちに死んだりします。この絶望!

語られる環境が余りに理不尽かつ余りに絶望的過ぎて正直ドン引きです。

例えば、

昨日まで生きてた人が今日になったら記録からも記憶からもいなくなった。

スターリンがちょっと嫌な顔したので粛清。

子供が親を密告する映画が美談として作られていた。

など。

オーウェルもびっくりのディストピアが、リアルにそこにあったものとして描かれるのです。「動物農場」と「1984年」は読んでるし、ソ連が元ネタになってるのも知ってたけど、小説だからある程度は誇張されてるものだと思ってたんだけど、そうじゃねぇんだなっていうのがよくわかる。オーウェルがびっくりしたディストピアがそこにありました。

 

今日友人だった人が明日には密告者になるかもしれず、常に死と隣り合わせの国で、実際に友人や知人、民衆の死を目の当たりにしながら絶望の淵に立って音楽を作り続けた男、ショスタコーヴィチ。この本を読むことによって彼の残した音符の裏に人々の屍や独裁者の影を見つけることができるかもしれません。

また、音楽を紐解くための一助としてだけでなく、人々の悲劇を知り、過ちを繰り返さないためにも、もっと広く読まれるべき本です。

あと、別にそんな堅苦しい目的がなくても、この本が面白いというただそれだけの理由で読んでもいいと思います。

 

BGM ショスタコーヴィチ 交響曲第11番より 2楽章


Shostakovich Sym.11 2nd Mov. - 2

(これかっこいい曲だと思ってたんですけど、本を読んで「血の日曜日事件」を調べてから聞くと、祖国への失望と恐怖で涙が出るんですよ)